、今日は外に出てはいけないよ」
 のさらさらとした柔らかい髪を梳き、複雑な形にするすると編み上げていきながら、腕の中に抱き込んだの耳元で白雄は言った。
「お庭にしか出ませんよ?」
 元より『外』に出ることのないは不思議そうに首を傾げる。編み込んだ髪を花の形の髪留めで飾ってやり、白雄はふっと微笑んだ。
「今日ばかりは庭に出るのも我慢してくれるか、。できれば庭に面した部屋にいるのも望ましくない。本をたくさん置いていくから、奥の部屋にいてくれないか」
「雨や嵐が来るのですか?」
「ああ、もしかしたらそうなるかもしれないな」
 晴れ渡った空を見てきょとんと瞬くを振り向かせてその頬に口付けを落とし、白雄は自分の手で仕上げた愛しい妹の姿を確認するようにざっと視線を走らせる。今日もは可愛いな、と満足げに笑うと、真っ赤になったの髪を崩さないようにそっと触れて指を滑らせた。
「今日はシンドバッド王が来るんだ。も知っているだろう?」
「っ、シンドバッドの冒険の?」
 白雄の言葉に、愛読書の著者である王がやってくると知っては目をきらきらと輝かせる。無邪気な瞳が憧れに輝くのを見て、白雄は期待に身を乗り出したに微笑んで小さな体を抱き寄せた。
「そう、かのシンドバッド王。彼は雷や嵐を従えるそうだ。も本で読んで知っているだろう? 危ないから、決して外に出てはいけないよ」
「はい、雄兄様!」
 もちろん白雄はシンドバッドのそれが金属器の誇張や脚色であることを知っていたけれど、そんなことは微塵も知らないような顔をしてに真剣な顔で言い聞かせる。も白雄の言葉に表情を引き締めて頷いた。無知で無垢な妹が愛おしくて、白雄は腕の中の体をぎゅっと抱き締める。
「雄兄様は、シンドバッド王にお会いになるのですか?」
「ああ、……一緒に来たいのか?」
 憧れの存在に会いたいか、と目を細めた白雄の問いにはぴしりと凍り付く。その瞳から数秒の間、全ての色が消え失せて。
「……いいえ、は雄兄様のお戻りをお待ちしております」
 ひどく凪いだ声が、何の表情も浮かべないの口から紡がれた。に教え込んだ戒めが未だに少しも色褪せていないことにうっそりと笑った白雄は、ぽんぽんと優しくその背中を叩いてやる。
「そうだな、はいい子だ」
 ふっと瞳に色の戻ったが、白雄の言葉にはにかんで笑った。
「……雄兄様、ひとつだけお願いしてもいいですか?」
「何だ?」
「お戻りになったら、シンドバッド王や眷属の人たちのお話を聞かせてください。雄兄様からお話が聞けたら、私はそれだけでとても嬉しいです」
「……ああ、そうしよう。楽しみに待っていてくれ」
 白雄の望んだままに振る舞う、白雄だけの存在を求めるに白雄は堪えきれない喜悦をたたえて笑う。そっとの体を抱き上げて、白雄の笑顔の意味も知らずに白雄が笑っていることに嬉しそうにするの唇を塞いだ。

「……それで、姫のことなんだが」
 本題であるバルバッドの件がひと段落し、もののついでのような軽い口調でシンドバッドが切り出した。対する白雄は口元にうっすらと笑みを浮かべてはいるが、といる時とは異なりその笑みは作りものめいた冷たい印象しか与えない。それは皇帝としての白雄の表情のひとつだったが、それをが知らないことを白雄は幸福に思っていた。
「なんだ、鳥の文句でも言いに来たのか」
「いや、間諜はそうと知られれば殺されるものだ。俺だってそうするからそれについてとやかく言うつもりはない」
「なら謝罪でもしに来たのか、鳥の姿を借りてのこととはいえ、皇妃の元へ忍び込んだことを」
 ギラリと白雄の瞳が峻烈な色を宿す。顔の造り以外はどこも全然似ていない兄妹だ、とシンドバッドは内心ため息を吐いた。
「いや、そのつもりもない。俺は姫の処遇について抗議をするつもりで来た」
「話にならないな。俺の妃を俺がどうしようとお前にどうこう言われる筋合いはない。それともシンドリアは煌の内情に干渉する気でいるのか」
「そういうわけでもないさ。ただ俺は、白龍皇子の友人として、彼が妹君について悩んでいるから助けになりたいだけだ」
 シンドバッドの言葉を聞いて、白雄の瞳に嘲笑めいた色が浮かぶ。白龍を友人だなどと、白々しさも極まればいっそ滑稽だと白雄は吐息で笑った。
「それで? お前は白龍の友人として、をどうしろと?」
「軟禁から解放して、適切な治療を受けさせるべきだ」
「まったくもって要らぬ世話だな。白龍はずいぶん厚かましい友人を持ったものだ」
「貴方は本気で、妹君が壊れたままで構わないと――」
 取り付く島もない白雄の態度に、他国の人間が踏み込める領分を超えているとは理解しつつも言い募ったシンドバッドだったが、笑みすら消して凍てつくような視線で自分を睨めつけた白雄に言葉を詰まらせた。その目は、シンドバッドに助力を請うた時の白龍の目に酷似していて。
「言葉に気をつけろ、シンドバッド」
 白雄は迷宮攻略者ではない。金属器を一つも持っていないにも関わらず、放つ威圧感はシンドバッドがこれまで対峙してきた王の器たちをも凌ぐほどで。これが大陸を平定し煌帝国を作り上げた立役者の一人にして、自国に張った組織の根をひとつと残さず焼き尽くした皇帝かとシンドバッドは息を呑んだ。
「七海連合だろうが七海の覇王だろうが、連合国でも属国でもない国の内情に首を突っ込み過ぎだ。白龍の金属器が欲しいのか、の魔力が狙いかは知らないが……これ以上こちらの内情に踏み込むようなら、煌と一戦を交える覚悟の上だと受け取るぞ。白龍の友人だからなどと、白々しい言い訳が通用すると思うな」
「……そんな理由で夫が戦争を起こしたと知ったら、噂に聞く優しい姫君はさぞ悲しまれるだろうね」
「俺とに対する侮辱と捉えるぞ、それは。加えて言うなら、お前はいくつか思い違いをしている」
「思い違い?」
「まず白龍は、もうの立場について納得している。お前に助力を願ったのは以前の話だろう。もうあれはお前の助力を望んでいない。お前が要らぬ世話を焼く必要も無い」
「ッ、」
 白龍がを救うことを諦めたという事実に、さすがのシンドバッドも目を見開いた。危ういほどの光を瞳に宿してシンドバッドに助力を願った白龍がそれを諦めるなど、よほどのことがあったのか。
自身もあそこから出ることを望んでいない。お前も『お友達』ならの口から聞いただろう、あれがどれだけ俺を慕っているか」
「……ああ、確かに姫君は貴方を随分慕っていたようだが」
「それとその『姫君』というのはやめてくれないか。あの子はもう姫ではない、俺の妃だ」
「……失礼をしたね」
「わざわざ遠い異国まで足を運んでもらってご苦労なことだが、全て徒労だな。ああ、バルバッドの件はお前たちの望むようになるのだからまったくの無駄でもないか。宴の用意をしてあるから、臣下も連れてきて楽しむといい」
「臣下を同席させてもいいなんて、随分寛容だね」
 白雄を寛容だと言ったのはの件にあてつけての皮肉だったが、白雄はそれを理解した上でフッと笑ってみせた。
がお前の本を愛読していてな。今日の寝物語にかのシンドバッド王と眷属たちの話をねだられているんだ」
「……それは光栄なことだ」

「おかえりなさい、雄兄様!」
「ただいま、
 の待つ離宮へと戻り奥の部屋の扉を開ければ、最愛の妹が白雄の腕の中に飛び込んでくる。言いつけ通り奥の部屋で一日大人しくしていたらしいに目を細めて、白雄は白く柔らかい頬をするりと撫でた。
今日を庭に近付かせなかったのは、シンドバッドが以前のように小動物などを使ってに近付くことを危惧したからであるが、どうやらその心配は要らなさそうだ。
「雷も嵐も来ませんでしたね」
 少しだけどことなくがっかりしている様子のにくすくすと笑みをこぼし、白雄はを抱き上げる。今日は白雄が宴会に出ていたから食事は既にどちらも済んでいる。湯浴みに向かおうとそのまま歩き出した白雄の胸にもたれて、がこてんと首を傾げた。
「どうした?」
「雄兄様……お酒の匂いが……」
「ああ、それなりに呑んだからな」
 酒が苦手なが若干居心地悪そうにしているので、さっさと湯浴みをして着替えてしまおうと白雄は足を早める。その前には少し不快な思いもさせられたが、を喜ばせることができるほどには冒険譚を聞いた。白雄の着物に掴まってキラキラと目を輝かせているが今か今かと白雄の話を待ちわびているのがありありと伝わってきて、白雄はその愛らしさに肩を揺らす。
白雄は寛大な人間だった。妹を連れ出そうとした弟たちに謹慎以上の罰は与えなかったし、白龍が娘を連れ出したことに関してはその後の事情もあるが何も咎めずにいた。離宮の庭ぎりぎりに時たま忍び込んで妹の姿を覗き見ているのも黙認している。シンドバッドの踏み込んだ発言すら、その意志が折れたことが確認できた後は特に咎めることも国家間の問題にすることもなく、の望んだ冒険譚を聞かせてもらったことに礼すら言っている。をここから連れ出したり、接触を図ろうとしたりと、その一線を超えることさえ無ければ白雄はそれ以外には寛容だった。境界線を超えてしまえば狭量では済まない容赦の無さを見せるが、が白雄の手の内にいる限りは白雄の狂気はひどく穏やかだった。
「ああ……そういえば、」
 どこから話そうかと思案していた白雄が、ふと思い出したように口を開く。の髪を解き、自らの手で着飾らせたそれをひとつひとつ脱がせていきながら、白雄はいたずらっぽく笑ってに言った。
「雷や嵐を従えたり、竜の姿になったりするシンドバッド王にも意外な弱点があるようだぞ」
「弱点?」
 意外そうにぱちぱちと瞬きをしたの唇に自らのそれを重ねて、数秒間柔らかな感触を楽しんでからそっと白雄は口を離した。
「シンドバッド王は酒に弱いらしい」
 お前と同じだな、とくすくすと笑った白雄の視線の先には、白雄の口の中に残っていた酒の匂いにあてられて真っ赤になったがいた。
 
151023
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