「母上……」
皇太子と呼ばれている少年は、筆をとって白い紙を前に思い悩んでいた。皇帝である父親の白雄に頼み込んで先日ようやく会えた母親。一緒に過ごせた時間は短く、交わせた会話も少なかったが、それでも細い体で自分を抱き締めてくれた柔らかなぬくもりを、彼は鮮明に覚えていた。父親の妹でもあるらしいその人は、やはり父親によく似ていて。他に三人いる父親の弟妹の誰よりも、母は父に似ていた。そして、自分が女に生まれていたら将来はこのような人になるのだろうな、と思うほどに自分と同じ顔立ちをしていた。可憐で優しく、儚げな人。抱き着いたときにほんのりと香った優しい花の匂いも、しっかりと思い出せる。
「違う、こうじゃない……」
筆を滑らせた紙を、ぐしゃりと丸めて投げた。あれから母親の容態は安定しないらしく、再び母親に会う許可は下りていない。せめて瞼の裏に浮かぶ優しい眼差しを紙の上に表すことができたら、と思い筆をとったが、何度描いても歪な線は脳裏に浮かぶ像を描いてくれなかった。
また、会いましょうね。
優しい声が、彼の脳裏で響く。愛らしい小鳥のさえずりのような声だった。鈴を転がすような声だった。一目だけ見えたその人は、少年の思い描いていた母親そのもの、求めていた家族の像そのものであった。優しくて暖かく、か弱く、愛らしいひと。けれど、彼はそれしか知らない。いつかまた会いたいという気持ちが膨らむと同時に、母親であるその人について自分はあまりに何も知らなすぎると気付いて、彼は筆を置いてガタンと立ち上がった。
「お前の母親の話が聞きたいって?」
「はい、母上はどのような方なのですか?」
いつも自分に稽古をつけてくれている、一番年嵩の叔父のところへとまず少年は駆け込んだ。片眉を上げて問い返した白蓮に強く頷く。
「か、一言で言えば可愛い」
「……?」
「……まさか、自分の母親の名前も知らないのか」
白蓮の言葉にぽつりと問い返した少年のぼんやりと凪いだ瞳を見て、白蓮は眉を顰めた。
「はい、父上も、周りの人も、母上のお名前を教えてくれませんでした」
「兄上……」
そういえば逝った姫宮の名前もは終ぞ知らないままだった、と白蓮は内心溜息を吐く。おそらく姫もの名前を知らずに逝ったのだろう。実兄の所業に痛むこめかみを抑えて、白蓮はふうっと深く呼吸をした。
「、様……」
「そう、だ。泣き虫で臆病で、優しくて愛らしい、純粋無垢な俺たちの妹。甘いものが好きで、菓子をやればそれはもう愛らしい顔で笑うんだ。花や小動物を愛でるのが好きでな、昔はよく紅玉と庭で戯れたり、紅明と鳩の餌やりをしたりしていた。苦手なものは虫や蛇、蛙などだな。小さい頃はよくジュダルにそれらを近付けられて泣いていた」
「神官殿は、昔からひどいことをなさっていたんですね。この間僕にも蛇をけしかけてきました」
僕は蛇は平気ですけど、と少年は視線を落とす。あの可愛らしい人に蛇や虫を近付けて笑うなんてひどい人だ、と眉間に皺を刻む彼は、目の前の叔父がジュダルに泣かされた妹を可愛い可愛いと愛でていたことを知らない。
「紅炎の眷属に、青秀というのがいるだろう? 髪が蛇の。ジュダルのせいでは青秀のことが苦手でな、おまけに威圧感のある紅炎のことも苦手に思っていたから、紅炎たちと会う度には白龍の後ろに隠れてぷるぷる震えていたぞ」
「白龍叔父上の? 父上ではないのですか?」
「ああ、白龍とは年子だからか昔から仲が良かった。は白龍によく懐いていたし、白龍もをよく可愛がってたな」
「叔父上が……」
いつも凍りつきそうな眼差しで自分を見る白龍が、あの優しいと仲が良かったというのが意外で少年は俯いた。臆病で泣き虫だという母が懐いていたなんて信じられない。もしかしたら、母親に対しては彼の全く知らない顔をするのだろうか。少年は白蓮に頭を下げて礼を言うと、次に向かうべく踵を返した。
「白瑛叔母上、こんにちは」
「こんにちは、殿下。いかがなさいましたか?」
「……叔母上と母上は、あまり似ていらっしゃないのですね?」
振り返った白瑛を見て、少年はこてんと首を傾げる。厳しくも優しく接してくれる白瑛に、母親を知らなかった頃の彼は自分の母は白瑛のような人だろうか、と想像を重ねたりしていたものだが、に会った今改めて見てみると、むしろ正反対のように思えた。
「に、会ったのですか?」
彼の言葉に、白瑛は目を見開いて聞き返す。常に凛としていて取り乱すことのない白瑛の珍しい姿に、少年はわずかに動揺しながらも答える。
「は、はい。短い時間でしたが、会わせていただけました。たおやかで、可憐な方でした」
「そう、ですか……の様子は、どうでしたか?」
「お体の具合がすぐれないようではありましたが、僕の名前を呼んで、笑ってくださいました」
最後にと会った時の、表情をすべて失ったかのような悲惨な様子が脳裏に焼き付いていた白瑛は、甥の言葉にとても小さな声でよかった、と呟く。首を傾げた少年に、誤魔化すように微笑んだ。
「もきっとあなたに会えて喜んでいたのでしょうね……は、白雄兄上と一緒で父親似なんです。私たちはどちらかと言えば母親似ですから、兄上ほどはと似ていないのですよ」
「母上と父上はお祖父様似なのですね……叔母上、叔母上から見た母上はどのような方だったんですか? 僕、母上のことがもっと知りたくて」
「……は、素直で真面目な、優しい子です。少し内気で控え目な性格ですが、思い遣りや慈しみの気持ちに溢れた、人の痛みのわかる子で、たくさんの人に好かれていますよ」
「僕も、母上のことが大好きです! 母上も、僕のことを好きでいてくれたらいいのですが……」
「があなたのことを好きでないわけがありませんよ、殿下」
俯いた少年の背を、ぽんっと優しく叩く白瑛。顔を上げた少年は、にこっと笑って礼を言った。
「ありがとうございます、叔母上……そういえば、母上の趣味や好きなことは何なのでしょうか? 叔母上のように、剣術や馬術に優れていらっしゃるのですか?」
「いいえ、はおとなしい子でしたし、魔導士で体はそこまで強くありませんでしたから、剣や馬などはあまり得意ではないですね。兄上たちもを剣から遠ざけていましたし……でもは料理や刺繍などが得意なんですよ。書物を読むのが好きでいろんな知識に富んでいますから、今度会う機会があれば書物の話をしてみればどうでしょうか?」
殿下も書物はお好きでしょう、と微笑まれて少年は強く頷いた。再び白瑛に礼を言うと、頭を下げて白瑛に別れを告げる。
「今度、会えたら……いいえ、いくら兄上でもきっと……実の息子、ですしね……」
俯いて呟いた白瑛の言葉は、少年には届かなかった。
「……何か御用でしょうか、殿下」
火傷に覆われた顔、左右で色の違う目、更にはその眼差しは冷たく凪いでいて、歓迎されてないことが明らかに解る叔父の表情に、少年はぐっと息を呑む。母のひとつ上の兄だという白龍はいつも極力甥には関わらないようにしていて、どうしても関わらざるを得ない時はひどく冷たい眼で彼を睥睨した。誰に言われずとも、嫌われていると理解出来る。けれど、彼は白龍の知るのことが知りたかった。それに、母親が慕っていたという白龍は、きっと本当は優しい人に違いないと思う。
「僕、母上のことが知りたいんです」
「っ、」
「白龍叔父上は、母上と仲が良かったと聞きました。どうか僕に母上のことをお聞かせ願えませんか……叔父上!?」
彼の言葉が終わらない内に背を向けて歩き出した白龍に、彼は慌てて制止の声を上げる。
「待ってくださ……、あっ!?」
掴んだ裾を振り払われ、小さな体躯は尻餅をついた。白龍は慇懃に「失礼致しました」と頭を下げると、再び歩き出す。明確な拒絶に怯んだものの、彼は立ち上がると去って行く白龍の腕にしがみついた。
「お願いします! 僕はどうしても母上のことを知りたいんです!」
「…………」
白龍は唇を歪めて憎々しげに少年を見下ろす。それに怯まずに真っ直ぐに白龍を見据えた少年に、白龍は溜息を吐いた。
「俺は、について誰にも触れられたくありません。あなたが相手なら尚更です。お引き取りください」
「どうして、僕が相手だと母上のことを余計話したくないのですか……?」
「……あなたが傷付かないように黙っているというのがわかりませんか」
「何を言われても泣いたりしません、ですからどうか」
必死に言い募る彼に白龍は舌打ちをして、ひとまず腕から手を離させる。しゃがみ込んで少年と目の高さを合わせると、薄氷の中にぎらりと熱を孕んだ瞳で彼を見据えた。
「は俺の全てです。可愛い小さな、愛しい妹です。そのと全く同じ顔立ちをしているくせに、中身は兄上によく似ているあなたが憎らしい。俺から最愛の妹を奪った兄上が、可哀想なを蹂躙し尽くして生まれたのがあなただ。怖かっただろうに、苦しかっただろうに、はあなたを孕まされて、痛みに喘いで、自分の命を削ってあなたを産んだ。何に較べることもできない愛しい人が他の男に産まされたあなたを、俺が憎まずにいられると思いますか? 殿下」
「え……?」
今にも目の前の細い首を縊ってしまいたいと雄弁に語る目が、聡明とはいえ幼い少年の心を射貫く。それではまだ足りないと、少年の無邪気な問いかけに抉られた心の痛みを擦り付けるように白龍は開いた口から毒を吐き出し続けた。
「あなたは本当にによく似ていますよ、殿下。その深い青の目も、あどけない輪郭も、鼻梁も、唇も、眉も、何もかも、上辺だけはにそっくりだ。本当に、憎らしいですよ。あなたは、俺の何よりも尊く大切な存在の胎に巣食って産まれてきたのだと、嫌でも突き付けられる」
「叔父上は、まさか、母上のことを、」
「……何ですか? その目は。俺は言いましたよね、あなたを傷付けないように黙っていたんだと。それを自分のために引きずり出したのはあなただ。俺には決して手の届かないものを得ているくせに、それでも奪おうとするところは本当に兄上にそっくりですね。さすがは兄上の子だ。兄上が、俺の愛しい愛しいを壊し尽くして孕ませた子だ。ええ、俺はを愛しています。他の誰でもない、あなたの母親を愛しています。あなたの父親に奪われた、可愛い小さな妹をね」
言葉の意味そのものは半分も理解出来なくとも、白龍がに抱えている愛と、白雄や自分に向けるおぞましいほどのどす黒い感情を直に触れ理解した彼は、その場にへたりと座り込む。
「どうせあなたはに愛されているんでしょう。は優しい子だから、あなたを愛さずにはいられない。あなたは自分がにもたらした苦痛も知らずにが好きだとのたまうんでしょう? これに懲りたら今後一切俺の前でのことを口にしないでくださいね、殿下。の心身を削って産まれてきたくせに無神経にを慕うあなたを、殺してしまいたくなってしまいますから」
「あ……」
力なく座り込んだ彼に手を貸すこともなく、冷たく吐き捨てると白龍は立ち上がり、踵を返してその場を去っていく。それを今度は追わなかった。追えるわけがなかった。
「どこに行っていたんだ、出かける時は誰かに言付けをしなさい。お前は皇太子なのだから、万が一がないように行動してくれ」
「父上……申し訳ありません」
部屋に帰ると待っていた父親の叱責に、白龍の言葉に打ちのめされていた少年は憔悴した様子で答えた。その様子を見て何かあったのだと悟った白雄は、説教するつもりだった口を閉じる。
「次から気を付けてくれればそれでいい。何をしていた?」
「……叔父上たちに、母上の……様のことを聞きに行っていました」
「……の名前は誰から聞いた?」
「白蓮叔父上です、が……僕が無理を言って教えてもらったんです、叔父上のことを怒らないでください」
「怒りはしないが……のどんな話を聞いてきたんだ?」
白蓮が息子にの名前を教えたと聞いて内心舌打ちをした白雄だったが、口止めをしていたわけでもなかった自分の手落ちだと諦めて、白蓮たちが他に何を話したのか聞こうとした。
「白蓮叔父上は、母上の好きなものと苦手なものを教えてくださいました。白瑛叔母上は母上の趣味を教えてくださって、白龍叔父上は……」
「白龍? 白龍がお前にのことを話したのか?」
「……いえ、僕には話したくないと……」
白龍の名前に驚いて眉を上げた白雄に、彼は嘘を吐いた。誰よりも愛しい人をお前の父親が奪った、という白龍の言葉が脳裏にこびりついて離れない。白龍の言葉は本当なのだろうか。少なくとも、白龍がを愛していた、否、今でも愛しているのは本当なのだろう。は、母親の気持ちはどこにあったのだろう。あの愛らしい人を、父親が壊したというのはどういう意味なのだろう。それは、自分が知っていいものなのだろうか。
「……父上」
「なんだ?」
「父上から見た母上は、どんな方なのですか?」
あらゆる葛藤を呑み込んで、彼はひとつの問いかけを口にする。白龍の示した亀裂に踏み入ってしまったら、何もかもが壊れてしまうような気がした。あの脆く美しい笑顔が、崩れてしまうような気がした。
「は、俺の唯一の存在だ。ただひとり、だけが愛おしい。弱くて脆くて、触れれば壊れてしまいそうな儚さが、けれどどうしようもなく愛おしくて、ずっとこの手の内に囲っていたくなる。無邪気で純粋で、可憐で愛らしい、俺のただひとりの妃だ」
側室が聞けば怒り狂うか卒倒しそうなことをサラリと口にして、白雄は息子の問いかけに答える。
「父上は、母上を愛していらっしゃるのですよね?」
「ああ、俺はを愛しているよ。この世の誰よりも、のことを愛していて、の幸せを願っている」
僅かに抱いた不安が吐き出させた問いにも、白雄は間髪入れずに肯定の答えを返す。それに安堵して、彼はほっと胸をなで下ろした。白龍の言葉を思い返せば暗い影が心に差すが、白雄がを愛しているという言葉を信じてその影を振り払う。愛が生み出すのは決して誰もが受け入れられる幸福だけではないとまだ知らない幼い少年は、白龍の言葉に傷付いた心を庇ってそれを見逃した。
「またいつか、母上にお会いしたいです」
「……いつか、な」
息子が書き損じた紙に描かれた人物に目を落として、白雄は目を眇める。描かれた一片の曇りもない笑顔に違和感を感じて、チリっと一瞬焼け付くような痛みを覚えた。が翳りのない笑顔を見せなくなったのはいつからだろう。それを考えれば辿り着く答えはたったひとつで、それから目を逸らすように、白雄は屑籠に紙を投げ入れた。
150914
ネタ提供:知らないシリーズで、ヒロインの息子が白兄弟にヒロインのことを聞く