「ははうえ……?」
目の前の愛らしい人は、自分の母親のはずだった。
けれど、彼女は少年の呼びかけに応えない。たった一度しか会っていなくとも、見紛うはずもない、彼の慕わしい母親。優しく抱き締めてくれた、大好きな人。もう一度会いたくて、けれど待てど暮らせど父親からの許しは得られなくて、白蓮たちから聞く母親の過去の話に会いたいという思いは募るばかりで、いけないことだとは解っていたけれど、こうして離宮に忍び込んでしまった。
「母上、」
もう一度呼びかける。けれど、椅子に座ってこちらを見るの瞳は少年を映していなかった。また会いましょうね、と言ってくれた時の微笑みもその顔には浮かんでいない。抜け殻のようなその人は、虚ろな表情で座り込んでいた。
「母上、僕です、様、」
もしかしたら体の具合がよほど悪いのではないだろうか、と少年は辺りを見回す。忍び込んだことがばれて怒られてしまっても構わないから、誰か人を呼ぶべきではないかと少年は人の姿を探してきょろきょろと首を動かした。
「……、」
つん、と何かが少年の肩に触れる。驚いて振り向いた彼の頬を、ほっそりとした白い指がそっと撫ぜた。
「母上……?」
優しく、壊れ物に触れるかのような手付きでそっと少年の頬を、髪を、頭をゆっくりと確かめるように辿っていく柔らかなてのひら。その温度はとてもあたたかいのに、それが嘘のようにの表情はぽっかりと抜け落ちていて、少年は無性に泣きたくなる。
「…………」
そっと、白い手が少年の肩を押した。ふるふると、どこか悲しそうに首を横に振る。ここにいてはいけないのだと言われた気がして、少年は反発するようにその手を掴んできゅっと握った。
「母上、僕は、っ、」
けれど、の表情が動いたのを見て少年は開いた口を閉ざした。空っぽだった表情が、今にも泣きそうに歪む。懇願の色を映して自分を見つめる瞳に、少年はぐっと息を呑んだ。
「……どうしてですか」
応えは無い。ただ、母は悲しそうな顔をしてそっと自分を遠ざけようとする。静かな拒絶に、少年の目じりからぽろりと涙がこぼれた。
「おねがい、――」
呼ばれた名前に、掠れた声に、少年は目を瞠る。けれど母の口はそれ以上開くことはなく、ただ悲しそうな目で少年を見つめた。縋るように少年の頬を撫でていた指が、名残惜しげに離れていく。
きっと笑ってくれると思っていた、優しい母親からの拒絶に、少年はぐっと唇を噛む。ぷつりと切れた唇から滴った血を見て、ますます悲しそうな顔をしたはそっと何かを呟いて指先を息子の唇に向けた。ふわっと温かい光が空気を揺らして、切れた唇を癒す。それに驚いた少年が口を開くよりも早く、コツコツと靴の鳴る音が二人の耳に届いた。
「にげて、」
ハッと扉を見遣ったが、小さな声で空気を震わせる。逃げてください、と震える声で繰り返すの表情にただならぬものを感じて、少年は踵を返した。途中で一度だけ振り向くも、は既に彼を見ておらず、ひどく怯えたような目で扉の方向を凝視している。忍び込んだ時に入ってきた窓枠に手をかけて、少年は逡巡した。このまま、逃げてしまっていいのだろうか。優しい母親があんなに怯えて震えているのに、自分一人が逃げてしまってもいいのだろうか。母に駆け寄って抱きしめてあげたい、安心させてあげたい。守ってあげると告げて、笑ってほしい。けれど、母はきっとそれを望まないのだろう。聡い少年は悔しさに眉間に皺を寄せながら窓枠を乗り越える。けれどやはり母が心配で、少年はそっと室内を窺った。
「ただいま、」
そして現れた人に目を瞠る。母があんなに怯えていた相手は、自分の父親で、母の夫である白雄だったのだ。以前会った時は白雄に怯えた様子など見せなかったのにどういうことだろう、と少年は息を殺して二人を見守る。
「おかえりなさい、雄兄様」
の声は、少しだけ震えていた。それに首を傾げた白雄が、の頬に手を伸ばす。それにビクッと震えたを見て、白雄が目を細めた。スッとから視線を逸らした白雄に、心臓がドキッと嫌な音を立てる。嫌な予感がしてサッと窓枠の下に隠れた少年の上を、白雄の視線が射抜いていった気がした。バクバクと鳴る心臓を押さえて、白雄が気付かないようにと願う。自分が見つかったらが怒られてしまうような気がして、少年は軽率にここに踏み入ったことを後悔した。
「んッ……」
聞いたこともないようなの声がして、少年はぴくりと震える。戸惑うようなの声と、それを面白がるような白雄の声。囁くような声の内容までは聞き取れなかったが、何故だかひどく悪い予感がした。
「ゆう、に、さま……、」
苦しそうなの声に不安を覚えて、少年はおそるおそる窓枠から室内を覗き込む。ばちりと合ってしまった視線に、一瞬頭の中が真っ白になった。
「…………」
と唇を重ねている白雄が、視線だけで嗤っていた。叫び出したい気持ちに駆られたが、両親の睦み合う姿から目を逸らせない。の着ている服をするりと落として、白雄は挑むような目を向けてきた。剥き出しになった白い肩と、青い髪に隠れた小さな背中に、思わず目が釘付けになる。ごくりと鳴った喉の音が聞こえたのか、白雄はますます愉快そうに目を細めた。くちゅ、と鳴る水音に、見てはいけないものを見ている罪悪感が湧き上がる。それでも、の白い肌と、それに触れる白雄から目を離せない。
「どうした、。気が散っているぞ?」
「ごめ、なさ……っ、」
上気して乱れる呼吸。びくんとしなる細い体。笑う白雄。知識として知っているだけの行為、それも自分の両親である兄妹がしているそれはひどく背徳的で。は泣いている。きっとは息子がもう帰ったと信じていたいはずだ。自分の子どもにこんな姿を見られたくないはずだ。それなのに白雄に触れられて肌を赤く染めるの後ろ姿はとても美しくて、足は根が生えたように動かなかった。そんな息子の心を見透かしたように白雄は息子を見据えて笑いながらを犯す。の背中に回った大きな手が、ぎゅっとを抱き寄せた。高い声を上げたが、縋るように白雄の胸に倒れ込む。母がぐったりと動かなくなるまで行為を止めなかった父を、少年は震えながらもずっと見ていた。
「殿下には姉君がいたことを、ご存知ですか」
憔悴してとぼとぼと歩く少年に、彼の叔父が声をかける。離宮の方向から歩いて来た少年に何かがあったことを察したのだろう、その声はいつもよりもほんの少しだけ優しかった。
「姉、ですか……? そんな話は一度も……」
「姉君はもう既に亡くなられています。墓参りがしたいと、兄上に言ってみればいい。そうしたらきっと、あなたは俺の気持ちを少しでも理解できるでしょうから」
「白龍叔父上……」
「あの人はもうとっくに狂ってるんです。あなたは兄上の狂気が孕ませた子だ。正直、あなたが打ちのめされている光景が俺には愉快でならないですよ」
「っ、」
「これであなたも俺と同じですね、殿下」
冷たく笑った白龍が、踵を返して去っていく。その背を追いかける気にはなれなかった。自分がいることをわかっていて目の前でを犯した白雄は、明らかに自分にそれを見せつけていた。は髪の一本に至るまで白雄のものだと、そう主張していた。あれは自分への罰だ。白雄のものであるに触れようとしたから、自分のせいでは白雄に泣かされたのだ。
「ごめんなさい、母上……」
ぽたり、地面に水滴に落ちる。自分を見て笑った白雄の表情は、どんな厳しい表情よりも恐ろしかった。
160118
ネタ提供:知らないシリーズで、ヒロインの息子が白雄の狂気を目の当たりにする