「兄さんは、悪くない」
 ぐっと拳を握り締め、涙を浮かべて血の繋がらない妹は言う。その夜の海のように深い青から目を逸らしてしまいたいけれど、でもずっと見つめていたくて。相反する気持ちのまま、自分の服の裾に縋る『いもうと』の手を握ろうとして、躊躇って、結局握れずにその手は半端に宙をさ迷った。
「アリババ兄さんは、悪くないんです……!」
 本当は、いかないでと泣いて縋りたいのだろう。けれど逃げ出したいアリババの傷ついた心を慮ってそれを言わないの優しさに、アリババはその青い髪をそっと撫でた。
「ありがとう、
 ごめんな。
戻ってくるとも、いつかまた会えるとも言わずに、アリババはそっと身を引く。の手が静かにアリババの服の裾から離れて、はその手で顔を覆って泣き出した。
「兄さんは、悪くないのに……!」
 の泣き声を背に、アリババは歩き出す。最初は鈍かった足取りが次第に早くなり、泣き声に追い立てられるようにアリババは駆け出した。ここにはもういられない。賊の襲撃の原因となり、父王を死なせたことに、アリババの胸は押し潰されそうに軋んで。それでも、妹が自分を信じて泣いてくれたことだけが、今のアリババにとっては唯一の救いだった。

 が鮮明に思い出せる記憶の内で一番古いものは、目覚めた時に自分を覗き込んでいた二つの顔だ。が目覚めたことに喜びで輝いた育ての母と兄の顔が、にとって最初の記憶だった。
それより前のことは、おぼろげにしか覚えていない。が幼かったのもあるし、養母いわく「生きたまま地獄巡りでもして来たのかと思った」という有り様で見つかったらしく、余程悲惨な目に遭っただろうことも記憶の欠落の原因だと思われた。に思い出せるのは、ぼろぼろの体を引きずって懸命に鉄錆の匂いから逃げて駆けたことと、それよりも前、断片的に思い出せる、輪郭のはっきりしない絵画のような記憶だ。きっと幸せに暮らしていたのだと思う。なんとなく、自分は前の場所でも愛されていて、そして今より明らかに恵まれた環境で生きていたことは覚えていたが、それだけだった。
 を拾ったのはバルバッドという国の片隅、スラムで生きる娼婦のアニスと、その息子アリババだった。汚れ切っていた上ズタズタになって着られなくなったため処分したがそれでも上等だとひと目でわかる服、腕に半端にぶら下がった壊れた鉄の鎖、懐に仕舞われていた血塗れの本、明らかにどこぞの国の身分ある人間がただ事ではない事情で奴隷商に捕まっていたのだろうと判る風体のを、アニスは躊躇うこともなく自分の子として引き取った。記憶が失われていてもあからさまに温室育ちのが生きていけるように生きる術を教え、その優しい性情と品の良さが失われないように大切に育ててくれた。その見目の良さゆえに幼女趣味の変態に買われそうになったのも一度や二度ではないが、スラムという過酷な場所でアニスは体を張ってを守り抜いた。実の息子のアリババや、より後に引き取られたカシムとマリアムと分け隔てせず、アニスはを愛してくれた。
兄となったアリババやカシム、ほとんど同い年の妹マリアムとの仲も良好で、は毎日を必死に生き延びながらも確かに幸せだった。本人や周りは魔法だと判っていなかったがには怪我を治す力があり、そのおかげでスラムの住人たちと持ちつ持たれつの関係を築けていたことも大きい。その力を狙った破落戸に拐かされそうになったこともあったが、アニスやきょうだいたち、仲のいいスラムの住人たちの助けで事なきを得ていた。
 そんな彼らに訪れた一度目の転機はアニスの死である。病死した母の体にすがりついて、どうして自分は病気を治せないのだろうとは自分を責めた。カシムは盗みや殺しには手を染めないものの怖い目をした連中と付き合うことが増え、マリアムはそれを不安がってよく泣くようになり、アリババはマリアムやを慰めながらもカシムの変化に戸惑っていた。それでも、きょうだい四人で寄り添って生きていた。
やがてが自分の能力を独力で磨き病気をも治せるようになった頃、二度目の転機が訪れる。スラムに王がやってきて、アリババを自分の息子だと言ったのだ。アリババは王宮に迎えられることになり、兄の出自に驚きながらもは泣き笑いでアリババを見送ることにした。マリアムも、同様泣きじゃくって顔をぐしゃぐしゃにしながらも、いつかまた会えたら王宮での話を聞かせてね、とアリババと約束を交わして。
ただ一人、カシムだけがアリババとの間に嫌な緊張感を孕んでいた。卑屈な笑みを浮かべてお前はやっぱり俺達とは違うんだ、と引き留められることを願ったアリババを突き放して。
「違って当たり前じゃないですか、兄さんたちはきょうだいだけど、全然違う別の人間じゃないですか……!」
 アリババがカシムに殴りかかったのをしがみついて必死に止めながら、は叫んだ。
「そうやって私たち、別の人間同士で、それでも手を伸ばして支え合いながら生きてきたんじゃないんですか!? 兄さんたちは、違う人間だからこそ友達になったんじゃないんですか!?」
「るっせえよ! お前もどうせどっかの王様か貴族の御落胤なんだろうよ、そんなにあまっちょろい性格しやがって!」
「今はただのスラムの子供ですよ兄さんのバカ! 仮にそうだとしても、いつかアリババ兄さんみたいに迎えが来たとしても、私は兄さんの妹ですよ! 兄さんたちもそうなんじゃないんですか、アリババ兄さんが王子様だったら、カシム兄さんはアリババ兄さんの友達じゃなくなるんですか!?」
「お前、俺の友達でいてくれないのか……? どこに行ったって、俺たちがスラムで走り回ってた記憶は、変わらないんじゃないのか?」
 大泣きでカシムに意見すると、カシムが抱えていた不安に初めて気付いたようにおそるおそる問いかけたアリババに、カシムは思わず目を逸らす。
「王子様がこんなスラムの汚ねえガキと友達だなんて、恥ずかしくねえのかよ……」
「何が恥ずかしいんだよ? カシムは俺の友達で、兄貴分で、家族だろ?」
「……お前、やっぱり甘っちょろいバカだわ」
「なんだと!?」
 そっぽを向いたカシムに憤ったアリババがカシムに掴みかかろうとするが、顔の向きを戻したカシムの表情にはっとして動きを止めた。
「褒めてんだよ、アリババこの野郎。王宮でもどこでもさっさと行けよ、そんで王子様でも何でも頑張ればいいだろ」
「……なあ、カシム」
「あ?」
「俺たち、友達だよな?」
「……当たり前のこと聞いてんじゃねーよ」

「俺さ、昔はアリババのことが大嫌いだった。お前のことも」
 地面に座り込んで泣きじゃくっているの後ろから、のもう一人の兄の声が響いた。
「お前は明らかにお綺麗なトコで生きてきたんだろうって思えたし、アリババもあんなだろ。俺はお前らが妬ましくてしょうがなかったよ」
「カシム兄さん……」
「あの後、お前はギリギリのところにいた俺を何度もマリアムと一緒に引き戻しに来ただろ。あれがすっげー嬉しくて、けど苛ついた」
 正直お前を犯して黙らせようと思ったこともある、と言いながらカシムはの手を取って立ち上がらせる。
「マリアムたち皆をお前が病気から救った時に、俺はお前を本気でどうにかしたいと思ったよ。おかしいだろ、どうしてこんなゴミクズの掃き溜めみたいなところにいて、お前はこんなに綺麗なんだよって思うと腹が立った。俺たちのクソ親父が帰ってきた時も、俺はあいつを殺すことも考えたのに、お前はどうにかしてあいつを追い払おうとしてさ。結局周りの大人も味方に引っ張り込んであいつを追い払っただろ。あの時に、せめてお前がマリアムたちを助けた時にでも、気付けていれば良かったんだろうな……」
 の手を引きながら、カシムは燃え上がる王宮の一角を見上げて遠い目をした。
「綺麗も汚いもない、俺たちは家族だって、それだけ胸を張って言えりゃよかったのにな」
「カシム兄さん……」
「俺のせいだ、あいつのせいじゃない」
「兄さんのせいでも、ないんです、絶対に」
「……お前のそういうとこ、ホント嫌い。好きだけどよ」
 あいつ、帰ってきたら俺のこと許してくれるかな、そうカシムはに問う。たぶん最初からカシム兄さんのこと怒ってないですよ、とが言えば、あいつのそういうとこも好きだけど嫌いだわ、とカシムは自嘲的な笑みを浮かべた。
 
150912
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