「あなたの本当のお母さんに、会えますよ」
武器商人と、名乗った覆面の男はにそう言った。
「あなたには帰るべき場所があるのです。こんなスラムで生きるより、いるべき場所に戻りたいとは思いませんか? 家族に会いたいと思うでしょう?」
の掌を、マリアムがぎゅっと握り締める。の肩を掴んだカシムの手にも力が篭っていた。カシムがいつか言ったように、に迎えが来る日が来てしまったのだ。まさかカシムが組織した霧の団に協力してくれた武器商人がを連れて行こうとするなんて、とカシムは運命の悪戯を憎らしく思う。こんな胡散臭い人間にを連れて行かせたくない、でもが家族に会いたいと願うのなら、自分たちにそれを止める権利はない。
ぐっと言葉を呑み込んでの決断を待つ二人の手のぬくもりに励まされて、武器商人の言葉に愕然としていたはカラカラになった口を開いた。
「私のお母さんは、」
きっと自分は愛されていた。霞がかったような、断片的でおぼろげな記憶しか無くとも、それは解る。けれど。
「私のお母さんは、アニスお母さんだけです」
の家族はアリババとカシムとマリアムだ。スラムの皆で、バルバッドの皆だ。幼い日の自分に何があったのかはわからない。でも自分は尋常でない理由で元いた場所を追われたのだろう。記憶もほとんど無いような故郷よりも、今いる場所がにとっては大切だった。もう一人の兄が、いつか帰ってくるのを待つためにも、はここにいたかった。
「私のいたい場所は、ここです。私の家族は、ここにいます。私はどこにも行きません。私の『家族』にも、そうお伝えください」
武器商人というよりはむしろ自身やカシムたちに言い聞かせるように、は言う。マリアムは顔を輝かせ、カシムは安堵と呆れ半分にため息を吐き、武器商人は覆面の下でピクッと眉を動かした。
「ふむ……まあ、それも一つの選択でしょう」
感情の読めない声音で、武器商人は答える。
「しかし、あなたが帰りたいと思うのならば、私はいつでも手を貸しますよ。あなたの『お母さん』は、いつまでもあなたを待っていると、それだけ今は申し上げておきましょう」
「じゃあちゃん、気を付けて帰るんだよ」
「はい、ありがとうございます」
今日の分の給金を受け取って、はホテルの支配人の男性に頭を下げる。バルバッド一番と言われるまでのホテルでスラムの住人であった自分が働けているなんて今でも信じられないと、は決して少なくはない給金で膨らんだ袋をしっかりとしまい込んで帰途に付く。道端でぎっくり腰になって動けない男性を助けたらまさかこんな就職口が見つかるなんて、世の中何があるかわからないものだなあとは思った。スラム育ちの人間だと言うことを話しても態度を変えることもなく、行儀作法もしっかり身についているし問題ない、と笑って雇ってくれた支配人には足を向けて寝られない。基本月給制であるのを、大金を迂闊にどこかに置いておけない暮らしをしているのために日払いで雇ってくれることも含めて本当に頭の下がる思いだった。
今日はザイナブやハッサンたちも夕飯に招くことになっている。食材をたくさん買い込んで帰ろうと、弾む気持ちで足を踏み出したの帰る先は、しかしスラムではない。アリババやアニスたちと過ごしたスラムは、アリババがバルバッドを出ていくよりも前に更地になってしまった。スラムの人間は地下に潜るようにあちこちに身を潜めている。たちが今暮らしているのも廃墟に等しい捨てられた空き家だ。いつかちゃんとした住まいを持てるよう、支配人に頼んで給料から何割か引いて積み立ててもらっているが、カシムやマリアムだけでなく、スラムで一緒に過ごした皆と暮らしたいという夢を叶えるにはそれなりに大きい家が必要で。
それでも決して叶わない夢ではないと、は思っている。マリアムも靴磨きや観光案内で懸命に働いてくれている。カシムは――
「」
「カシム兄さん!」
路地裏から夕闇に溶けるようにして現れた兄に、は破顔して駆け寄る。決して治安の良くないバルバッドで、の仕事が終わる度にカシムはこうして迎えに来てくれていた。
「おつかれ、」
「いえ、いつも迎えに来てくれてありがとうございます、兄さん。これ、今日の分のお給金です」
「…………」
が何の躊躇いもなく差し出した袋を、カシムは微妙な顔をして見下ろす。いつもが給金の袋を差し出す度にもの言いたげな顔をするカシムだったが、今日は特に決まりが悪そうで。視線を泳がせながら、カシムが口を開いた。
「……いつも思うんだけどさ、お前そんなに簡単に人に金預けんなよ」
「? 兄さんだからですよ?」
「……俺が勝手に使い込むとか、考えねえのか?」
「兄さんはそんなことしません。もし兄さんが黙ってお金を使うことがあるとしたら、それは兄さん自身や私たちのために必要なことだからです」
それに、私が持っているより兄さんが持っていた方が絶対安全ですし、と笑うにカシムは苦笑する。全幅の信頼を寄せるの笑顔は、少しだけ眩しくて、居心地が悪くて。けれど、時折父親の影に苛まれるカシムにとって、の信頼と笑顔は暖かく、救われるような気持ちになるから、目を背けたい気持ちよりももっと見ていたいという気持ちの方が強かった。
「……んじゃ、ハッサンたちも来ることだし、帰りはどっか寄ってくか。っても、どこも碌に飯なんざ売ってねえが……」
「…………」
カシムの言葉に、は俯く。アリババがいなくなってからも荒れる一方のバルバッドでは、アブマドの暴政もあって物流が滞っていて。が務めているホテルのような外国人や貴族向けの高級宿ですら、時折物質不足に悩まされるのだ。この国で満足に生活ができているのは、王侯貴族だけ。のように働いて金を得ても、貧民は足元を見られてぼったくられることも多く、満足に腹を満たすことさえできない日々をバルバッドのほとんどの国民は強いられていた。
「霧の団の連中も、もう限界が近い。このままじゃ、いつまた貴族の連中を襲うか……」
アリババのトンネルの話を陰から聞いていた人間が中心となって起こった王宮襲撃のことを、カシムはずっと気に病んでいた。自分が軽率にその話をさせなければと、アリババがこの国を去ってやマリアムが泣いた一因は自分にもあると、その自責の念から、カシムは不満を持つ民衆をまとめるために霧の団を立ち上げたのだ。には詳しく話してくれないが、彼らは運び屋のようなことをしているらしい。霧の団に『仕事』を武器と共に持ってきたのが武器商人だ。時々昏い目をするようになったカシムをもマリアムも心配していたが、カシムは真っ当に働けと笑うばかりで。
この頃、バルバッドの不穏なざわめきはその影を濃くしている。通貨が変わってからしばらく経ち、ほとんどのところでは煌という紙幣を使っているが、はカシムの助言で給金は金貨にしてもらっていた。表通りの店では金貨が使えないことが多いが、煌について揉める人々を見て、は兄の慧眼にいたく感心したものだ。通貨の問題の他にも、貴族の邸宅や国庫への侵入事件や、通り魔じみた殺傷事件も起きている。
この国は、いったいどうなってしまうのだろう。
この国で、ずっと皆と笑っていられる明日はあるのだろうか。
暗い気持ちになって俯くの背中を、カシムがぽん、と叩く。人種の差なのか元々肉付きの薄い体だったが、最近は華奢を通り越して不健康なほどに痩せている妹の姿にカシムは眉を寄せる。おそらく、アリババが去ってしまった心労や、先行きに対する不安も影響しているのだろう。
「大丈夫だ、。お前もマリアムも、俺が守るから。アリババもそのうち、ひょっこり戻ってくんだろ」
「……はい、兄さん」
弱々しく笑うは、昔からずっとアリババのことが大好きだった。拾われてからずっと可愛がってくれた兄を、親鳥について歩くヒヨコのように慕っていて。アリババが王宮に行ってしまってからも、いつでもアリババに胸を張っていられるようにと真っ直ぐに生きて。優しい母親と、明るい兄の眩しさを、余すことなく受け継いで生きている。少し前までは、アリババやが妬ましくて、羨ましくて、少しだけ憎くて。けれど、自分と同じであの父親の血を引いているのに汚くなどないマリアムや、あれだけアリババを慕っていたのに、王宮に召し上げられたアリババとの別れを受け入れて生きようとしているを見ているうちに、そんな考えも変わってきて。でも、この国は荒れ果てていく未来しか見えなくて。せめてあの事件すら起こらなかったら、アリババがこの国を明るい方向へと導いていてくれたのだろうか、なんて思ってしまう。
「俺たちは、どうしたらいいんだろうな」
星の瞬き始めた紺碧の空を見上げて、カシムがぽつりと呟いた。その背中に括りつけられた布の包みの中に、黒い剣が入っていることをは知っている。その剣が、誰かの命を奪ったかもしれないと知っている。けれどは躊躇わず、そっとカシムの手のひらを握った。
「生きましょう。みんなで」
それしか願うことは無いのだと、は地面を見下ろす。耳に届いた声に顔を上げれば、路地を駆けてきたマリアムが手を振っているところだった。
151202
ネタ提供:Ifルートアリババの何か
とのことだったので、更新をもって代えさせていただきます。