優しい、とても優しい女の子がいた。
その思い出は、紅玉の暗い幼少期に鮮やかに色づいている。
 遊女の母の元から宮中の父の元へと召し上げられ、けれど紅玉にさして興味を持たない父は冷たく。市井の子と蔑まれ、卑しい売女の娘と嘲笑われ、兄や姉に話しかける勇気も持たずに隠れて生きていた。そんなある日、きょうだいとかくれんぼをしている内に迷子になってしまい泣いている女の子と出会ったのだ。身形は良く、とても愛らしい顔立ちをしていて。あまりに不安そうに泣いているのが可哀想だと思う気持ちが、拒絶されたらどうしようという気持ちを上回って、おそるおそる話しかけた紅玉にその女の子はぱあっと顔を輝かせて笑ってくれた。紅玉とその女の子は宮中を駆け回って遊び、紅玉はその日初めて宮中でとても楽しいと思えたのだ。
夕方になり女の子の兄が血相を変えて駆けつけた時に、その女の子が皇女様なのだと知って。皇太子である彼の探るような視線はとてもおそろしく思えたが、女の子が満面の笑みで紅玉に礼を言うと、彼は表情を緩め妹の遊び相手になってくれてありがとう、と紅玉に言葉をかけてくれた。
 その後も度々、女の子は紅玉を訪ねに来てくれて。女の子はたくさんのものを紅玉にくれた。綺麗な鞠やあやとり紐、色とりどりの折り紙や甘いお菓子、そして何よりも楽しい時間。最初の頃こそ身分の差があることに引け目を感じて、身を弁えて接しなければと思ったものの、無邪気に紅玉に笑いかけてくれる女の子の表情は、とてもあたたかくて。ともだち、なのだと思った。夢のような、楽しい日々。花のような笑顔を、紅玉は今でも鮮やかに脳裏に思い描けるのに。
 女の子は、死んでしまった。
は、大火のあの日死んでしまったのだ。兄二人と共に、炎の中、帰らぬ人となってしまった。その日から紅玉の世界は色を無くし、灰色の世界で気付けば紅玉は皇女になっていたけれど、何も嬉しくなどなかった。紅玉のたったひとりの友達は、世界から永遠に喪われた。消えてしまった笑顔、ぬくもり、優しい日々の残滓を追いかけても、過ぎる時間はそれらを食い破り風化させていく。何を与えられようと大切な存在の損失は癒えず、何もかもが虚しくて、悲しくて。喪失の痛みも癒えぬままに、日々は目紛しく過ぎていった。
 の葬儀は、生き残った兄の白龍の目覚めを待って執り行われた。その時のことはあまりに衝撃的で、紅玉の胸に鋭く突き刺さっている。
 『は、生きているんだ』
 空っぽの、白木の棺。小さな箱を、白龍は虚ろな笑顔で踏み潰した。
 『は生きてる、こんなものは必要ない……!』
『白龍……! 落ち着いて、白龍!』
 ポロポロと涙を零しながら凄絶な笑みを浮かべて棺をめちゃくちゃに踏み潰す白龍を、白瑛が止めようとしていた。止めなければ、が安らかに眠れるように白龍を止めなければ、そう頭は言っているのに、紅玉は目を見開いて白龍を凝視するばかりだった。が死んだと聞いた時の、目の前が闇に呑まれていくような絶望。受け入れられないと、紅玉は思った。受け入れられるわけがない。彼女をとても大切にしていた白龍なら、なおさら。受け入れたくないと、受け入れないと、そう心のままに泣き喚く白龍を羨ましいと思ってしまった。
 『は生きているんだ! 僕が助けたんだ! どうして死んだなんて言うんだ、は生きてるのに!! に必要なのは葬儀じゃない、捜索なんだ!!』
『白龍! やめなさい!!』
『姉上は何故わからないのですか!? は今こうしている間にも泣いているんです! 迎えに行かなきゃ、僕が探してやらなきゃ……誰もを探さないのなら、僕が探しに行きます!!』
 ジタバタと白瑛の腕を引き剥がそうと暴れる白龍。彼の泣き声混じりの訴えが響く中、パンッと乾いた音が空気を切り裂いた。
 『……は、死んだ』
 白龍の頬を叩いた紅炎が、様々な感情が入り交じった複雑な顔をして白龍を見下ろしていた。紅炎の言葉に、紅玉は自分の頬が打たれたかのように頬を押さえる。自分の心の中に隠していた希望をも、慕う兄は冷静に否定したのだ。
 『違う! は、』
『兄であるお前が送ってやらずにどうする。いつまでもそうしてお前が泣いていたら、が眠れないだろう』
 あくまで静かに諭そうとする紅炎に、白龍はギリっと奥歯を噛み締めた。仇を見るかのような目で紅炎を睨み付け、わなわなと唇を震わせる。ちゃんと送ってやれ、と言う紅炎に、白龍はぶつんと何かの糸が切れたかのように目をむいて叫んだ。
 『あなたのその怠慢が、を殺すんだ!! は生きてる!! あなた方は人殺しだ、あなた方のせいでは死ぬんだ!! あなた方が死んだと言うから、は死んでしまうんだ!! を殺すな、僕はこの手でを確かに助けたんだ!!』
『……っ、』
 白龍の言葉に少しだけ苦々しい面持ちを見せた紅炎に、紅玉は目を瞠る。きっと紅炎だって、白龍の言うようにが生きていると信じているに違いないのだ。けれど白雄や白蓮がいなくなって、紅徳が皇帝になって、上に立つ者になってしまった紅炎は白龍を諭すしかない。焼け跡にも城内にも、の姿はこの国のどこにも無い。生存は絶望的、そう看做された先帝の遺児を、紅徳が頂点となったこの国が探せるわけがなかった。
 『誰も信じないのなら、もういい! 僕がを探しに行く!! 結局誰も、のことなんてどうでもいいんでしょう!!』
 しかしその言葉に、その場にいた全員が凍り付いた。紅炎も紅玉も、白瑛も紅明も紅覇も。誰もを探してやろうとしない、お前たちにとって所詮はその程度の存在だったんだろうと、そう憤る白龍にそれぞれが反発する気持ちを抱いて眼光を鋭くする。そんなわけがない、そんなわけが――
 『は、』
 その言葉の続きは、誰も知らない。踏みにじった棺から離れて踵を返した白龍の首筋を、紅炎が手刀で打って気絶させたからだ。
 『……白龍に、監視をつけろ』
 ドサッと倒れた包帯だらけの体を抱えて、紅炎が周りに指示を出す。重傷の体のまま、本気でを探すために城を飛び出しそうな白龍。誰の理解を得られずとも構わないと、何処にもいない妹を探し続けて独りで斃れる姿が、容易に想像できた。もうこれ以上誰かを失うわけにはいかないと、紅炎は白龍を軟禁することにして。きっと、それによって白龍から恨みを買うことも、解った上でのことだったのだろう。白龍の言葉に深く傷付いた白瑛が、弟までも失うことのないようにと。
結局、の墓は作られなかった。葬儀は中止されたまま、改めて行われることもなく。白龍はその後、本心かどうかはわからないが白瑛には謝罪したらしい。酷いことを言ったと、あの時は取り乱していたのだと。けれどそれでもなおの生存を信じ続ける白龍と、そんな弟を見守るしかなく独りでを悼む白瑛の間には、確かな溝ができてしまっていた。軟禁を受ける代わりにの部屋の維持を求めた白龍は、周囲の説得もあってを探しに行くのではなく待つことにしたらしい。賢く勤勉で、鍛錬にも熱心な第四皇子。その奥に隠れた狂気にも見える信仰に、誰もが恐れを抱いて触れることを避けた。練白龍という人間は、基本的には遠巻きにされつつもそれなりの尊敬を受けていた。けれど誰もが、妹の死で白龍はどこかがおかしくなってしまったのだと思い、その点についてだけは彼を狂人と憐れんで。のことさえなければ至極まともな人間である白龍を見て、誰もがのことを口に出すことをやめた。練という存在は、やがて煌の中では触れてはいけない禁忌のようなものになってしまっていたのだった。

 それでも紅玉は、の存在を大切に胸の内にしまい続けていた。大切な宝物。幼い紅玉の救世主。独りぼっちだった自分を助けてくれたは、死んでしまったことによって紅玉の中で神格化され、もはや現実のを超えた概念にまで昇華されていた。辛い時、苦しい時、いつもの笑顔を思い浮かべた。それさえあれば、紅玉は救われた。柔らかい笑顔、愛らしいかみさま。想い出の中の救世主は、今でも自分を救い続けてくれている。自分の中では永遠なのだと、そう信じてのいない灰色の世界を極彩色に塗り替えて生きてきた。だから紅玉は、目の前の光景が信じられずに目を見開いた。
ちゃん」
 いつまで経っても戻ってこない神官を、探しに来て。そこにいたのは、ジュダルを青い巨人から庇っている、死んでしまったはずのかみさまだった。
外見こそ成長しているものの、見紛うはずがない。青い少年を振り向いて、大丈夫、あなたの友達はきっと止めてみせる、そう微笑んだその顔は。その柔らかな、陽だまりのような微笑みは。
バキン、と巨人の手が少女とジュダルを守る防壁魔法を襲う。紅玉の目の前で、紅玉のかみさまは、たったひとりの友達は、今再び殺されそうになっていた。それを理解した瞬間、すっと頭が冷える。けれどそれは錯覚で、実際は灼熱のように煮えたぎっていた。ぶつんと何かが切れるままに簪を引き抜き、なけなしの理性が消えぬ内に神官を救出するよう指示を出す。月が照らす夜の中、紅玉は水を纏って空飛ぶ絨毯から飛び降りた。
ちゃんに何してくれてるのよ、この化け物がッ!!!!」
 一瞬の内に生み出された水の槍が、青い巨人の胸を貫く。その先にはきっと、の笑顔があるはずだと、そう信じた。
 
160225
ネタ提供:ifルートアリババで、ヒロインの葬儀の話
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