幼いの身を襲った数々の出来事は、彼女に幾つもの大きな傷痕を残していた。本人が思うよりも、遥かに深い傷を。
『目が覚めたのか、良かった!』
『ほんとだ! 起きてる!』
目が覚めたの視界に飛び込んだのは、自分を見下ろす二つの顔だった。片方は黒髪の女性で、優しい顔をしている。もう片方は金髪の男の子で、好奇心にきらきらと輝く瞳でをのぞき込んでいた。
その光景は、にもきちんと覚えがあった。今のを形作る思い出は、この二人に助けてもらえたことから始まっていたから。
けれど、その後のことに、覚えていたはずの記憶が違っていたことには目を見開いた。
『名前は?』
聞かれたそれに、ぼんやりとした顔でしばらく女性を見つめていただったが、やがて問われたそれに応えようとして口を開く。けれど。
『……、……』
はくはくと開閉するだけの口に、は驚いたように瞼をこわばらせる。最も、その表情も死んだように動きが少なく、驚いたというのもようやく読取れるほどだったが。
何度か試すように動く口。出ない声。虚ろな、表情の抜け切った顔。
その様子や、処分した枷の残骸やぼろぼろの服、開いた口の中に見えた光景に女性は事態を察してハッと息を呑む。首を傾げるアリババの頭をそっと撫でると、傷ついた小さなの体を包み込むように抱き締めた。
『……辛い目に遭ったね』
優しい声と伝わるぬくもりに、の瞼がふるりと震える。けれどその藍色は、乾き切ったように涙一つこぼすことは無かった。
そういえば、とは自分の辿れる限りの記憶を思い返して愕然とする。自分で覚えている最初の光景は二人の顔だけれど、それから後のことは記憶にない。気付けばアリババやカシム、マリアムたちと一緒にスラムを走り回っていて。その間のことを何も覚えていないことに、は呆然と目の前の映像を見ていた。
『私はアニス。こいつは息子のアリババ。今日からあんたのおふくろと兄貴だよ。よろしくな、』
そう笑った女性は、の諸々の事情を大体察した上で、それでも何も言わずを引き取ることにしたらしい。白瑛たちは、それを複雑な思いで見つめていた。
『兄貴? 俺がこいつの?』
『そうだよ、アリババ。お前がの兄ちゃんだ』
いろいろと紆余曲折を経てどうにか聞き出したの名前を呼んで、アニスがその柔らかい青みがかった黒髪を撫でる。ふる、と震えた瞼の下で、何の感情も映さない瞳が揺れた。
『俺が兄ちゃん……!』
小さなアリババは、突然できた妹を訝しむこともなく、キラキラと目を輝かせて「お兄ちゃん」の使命感にぎゅっと拳を握っている。輝く金色に目を細めたの背中を、アニスがそっと押した。
『お前も守ってやるんだぞ、アリババ』
『おう! 俺は兄貴だからな!』
アニスがしたようにその柔らかい髪を撫でて、アリババがふんっと胸を張る。それを見た白龍がギリっと拳を握り締めた。を守る兄は自分だったはずなのに、があんなことになっているのも知らずただ母を憎んでいたのだ。アリババに嫉妬する資格もないと解っていても、妬ましい気持ちは募るばかりで。
『――よし、だいぶ歯も揃ってきたな!』
しばらく経っての痣や傷が消えた頃、定期的にを診ていたアニスがの口から手を離してニッコリと笑った。抜かれたのが乳歯だったのが不幸中の幸いか、とアニスは胸を撫で下ろす。起きた頃こそ抜け殻のようだっただが物覚えが早く、身の回りのこともすぐにできるようになった。けれど相変わらず声は出ないままで、表情も全く変わらない。この間など寝惚けたアリババに潰されて見るからに苦しそうだったのに呻き声も上げず眉一つ動かさないものだから、事態を把握してを助け出すまでの一拍に思わず呆けてしまった。アリババやアニスに触れられたり、アニスの作るご飯を食べたりしている時は瞼を震わせるため、何となく喜んでいることはわかる。同様に、知らない人間――特に大人の男が近付いたり、時折聞こえる怒鳴り声を聞くと瞼がこわばるので、怖がっているのだと読み取れる。凪いだ瞳にすら表情を浮かべないの機微を読み取るのはなかなかに難しく、けれどアニスたちの言うことをよく聞き家の手伝いなどもテキパキと率先して行うを、アニスたちは実の家族のように可愛がっていた。歯も生え揃ったし、きっと声が出ないのは心に原因があるのだろう。いずれはきっと声を聞かせてくれる日もくるに違いない、とアニスはそっとの髪を撫で回した。
『! 遊びに行こうぜ!』
アリババがバンっと家に飛び込んできて、の手をぐいっと引く。のーんとした表情で引かれるままにアリババと駆けていったを、アニスは転ぶなよーと声をかけて見送った。
アリババは、自分の妹になった青い目と髪の可愛い女の子に夢中だった。スラムを走り回ることも後回しにしての傍につき、あれこれと世話を焼いたりものを教えてやったりしていた。兄としての使命感を達成することはアリババにとって新しい喜びで、けれどそろそろスラムの仲間と遊びたい気持ちもあったアリババはそれをどちらも満たすつもりでの手を引いて連れて行った。
『アリババー、誰だよそいつー』
『俺の妹! って言うんだ』
『? よろしくなー!』
『全然アリババに似てねー!』
『うるさいなー、あ、それとはいろいろ大変なことがあってうまく喋れないんだ、喋れないからっていじめんなよ!』
喋れないというアリババの言葉に首を傾げた子どもたちだったが、深くは考えないことにしたらしくおーとバラバラに返事をする。カシムとその影にいたマリアムが、アリババと後ろのに近寄った。
『最近付き合い悪ぃと思ったら、いつの間にこんなデカい妹こさえてんだよアリババ』
『こさえてんだよー』
『いつでもいいだろー! 、こいつらはカシムとマリアム。俺のダチとその妹だ』
『…………』
『ほんとに喋れねーんだな。まあよろしくな、』
『よろしくね、』
アリババの服の裾をキュッと握って、が僅かに首を動かした。
『旗取りすんぞー!』
一人の子供の声と、ゴミの山のてっぺんに刺された旗に白龍は目を見開いてがたっと椅子を揺らす。が幼い頃から駆けっこやああいう類の体を動かす遊びを苦手にしていたことを知っていた。なんて遊びにを連れ出してくれたんだ、と頭を抱えた白龍と、気遣わしげにその肩を叩いた白瑛の視線の先で、アリババが笑った。
『今日は兄ちゃんがお前に一番取らせてやるからな!』
やめてくれ、そんな遊びにやる気を出さないでくれ、頼むから妹を危なさそうな遊びに巻き込まないでくれ、とでも言いたげな白龍がぱくぱくと口を動かすが、過去の出来事を止められるわけもなく。同様にのどんくささと打たれ弱さを知っている紅炎もぴくりと眉を動かした。
わあっと旗に向かって山を登っていく子どもたちが押し合いへし合いするのを見て白龍が顔を青ざめさせるが、予想に反してアリババはその群れに加わろうとはせずの手を引いて山の裏側に回る。
『勝つためには頭を使わなきゃいけないんだぜ、!』
ニッコリと笑ったアリババは、既に山に掘ってあった穴の一つにを連れて行く。ついて来いよ、と言って頷いたの前を行きその穴に潜り込んだ。もその後に続いてゴミの山に潜り込む。
いよいよ頭を抱えた白龍に、苦笑いすると白瑛。
やがて旗を手に勝ち誇ったカシムの背後から、ひょこっと二つの頭が飛び出す。金色がまずカシムの手から旗を奪い取り、そしてわざとらしく『あー手が滑ったー』と叫んで青みがかった黒の手元にぽとりとそれを落とした。それを拾って、アリババに促され首を傾げつつも、とりあえずカシムの真似をして高く掲げてみる。のーんと動かない表情もいっそ可笑しかった。
『今日の一番はだな!』
『新入りすげー』
『やるじゃん新入り!!』
『……いや、いやいやいや』
カシムがしょっぱい顔をするものの、単純な子どもたちはアリババに煽られてとりあえずを賞賛する。わしわしと頭を撫でるアリババに揺さぶられるままにぐるぐると回る首。それを退けて仕方なさそうに笑うカシム。すごいじゃん! と笑うマリアム。ぽけっと手の中の旗を見下ろしたの瞼がふるりと震えて、その目元が僅かに緩んだ。
151020
ネタ提供:愛は愛にifアリババルートで煌帝国滞在中にジュダルの透視魔法によってヒロインの過去を見た紅炎たちの反応