ころころと転がっていく髪飾りを追いかけて、路地裏に入っていく。ころん、と壁にぶつかって動きを止めたそれを拾い上げて、がどこか安心したように目元を緩める。髪飾りを大切に掌の中に包み込んで、アリババたちの元に戻ろうとしたの肩が、ガッと大きな手に掴まれた。
『……よう、お嬢ちゃん』
の肩を掴んだ男の姿に、映像を見ていた白龍たちの間に緊張が走る。その男は、無知なを捕え金持ちの変態に売ろうとした、奴隷商人の男だった。の魔力の暴発に巻き込まれた時のものか、その顔面には以前には無かった傷ができている。肩を掴まれたは奴隷商の男を覚えていないらしく、不思議そうにゆっくりと首を傾かせた。けれど無意識の底から這い上がってきた恐怖が、の体をカタカタと震わせる。アニスからもらった髪飾りに縋るようにぎゅっと掌を握り締めて後ずさったの肩をギリギリと強く締め上げて、男はニタリと嫌な笑みを浮かべた。
『あの時はよくもやってくれたなあ……おかげであの変態は大層お怒りになってなァ……お前を捕まえて来なけりゃ俺を奴隷にしてやるとまで言うんだよ……』
を捕まえた時の優しげな口調はあくまで獲物を捕らえるための手管の一つであったのか、怒りを含んだ声音と粗暴な口調で男は怯えるを路地裏の奥へと強い力で引き摺り込む。
『今度は歯だけじゃ済まされねえぞ……逃げた奴隷には厳罰を加えなきゃなあ、あの変態は前も後ろもブチ込んで壊してやるって張り切ってるぜ?』
恐怖のままに腕を振り払おうとしただったが、あえなく腕を掴まれて引き摺られていく。男の言っている内容を理解できないは、しかしガタガタと激しくなる震えと恐怖に心臓が激しく脈打つのを感じた。ドクドクと煩いくらいに鳴り響く心臓が焼け付くように痛んで、嫌な汗が吹き出てこめかみや背中を伝っていく。藍色の目は恐慌に大きく見開かれて、ただでさえ白い肌は血の気を無くして青ざめていた。震える手に力を込めて暴れようとすれば、鼻で笑った男に腹を殴られる。かはっと息が漏れて、倒れ込んだを荷物のようにズルズルと男は引き摺った。
「……っ、」
ブツッと頭の中で音がして、の脳裏に記憶の底から蘇った光景が過ぎる。泣いているこども。押さえつける大人の男。頭が割れるように痛んで、断片的にいくつもの光景がバラバラと目の前に浮かび上がった。痛くて、苦しくて、ひとりぼっちで、喉がからからに干からびそうで、枯れるほどに泣いた目じりは乾いた涙が張り付くような不快な感覚に苛まれていて、空っぽのお腹は背中とくっついてしまいそうなほどのひもじさを訴えていて、鉄の檻は硬くて、冷たくて、無謀にもその檻を傷付けようとして剥がれた爪は裂けた痛みに赤く血を流して、誰もいなくて、どうしようもなくひとりで、優しかったまるい何かが胸の裡で抉れていって、剥がれ落ちたその欠片は消えていって、
『っ、』
ヒュッと、引き攣った音がの喉から漏れた。誰にも見つけてもらえなかった。忘れてしまった。とても大切だったはずなのに、ひとりになりたくなかったのに、それを無くしてしまったから、ひとりになってしまった。忘れてしまったから見つけてもらえなかったのか、見つけてもらえなかったから忘れてしまったのか、わからないけれど、はひとりぼっちで、無くしてしまったことはわかるのに、何を無くしてしまったのかがわからない。とても、大切なものだったはずなのに。
『……! ー!』
泣き震えながら引き摺られていくの耳に、ひとつの声が届く。虚ろな目が瞼の奥でピクリと震えて、は俯いていた顔を上げた。
『、どこだー!? 返事しろ、!』
『どこー、返事してー! ー!?』
『この際アシムでもいいから呼べ、!!』
誰かが、を呼んでいる。を探してくれている。裏返った声で、慌てて、あんなに必死に、を見つけようとしてくれている誰かが、いる。の名前を知らない奴隷商の男は、アリババたちの声をスラムの喧騒の一つとしか認識していないらしく、特に急ぐ様子も見せずにを引き摺っていく。硬い鉄に繋がれていた記憶が、アリババたちを呼ぼうとしたの喉をギシッと引き攣らせた。
――みつけて、もらえなかった。
どんなに叫んだって泣き喚いたって、誰も気付いてくれなかった。誰も助けてくれなかった。
――よべる、なまえなんて、
の大切なものは皆、の中で壊れてしまった。
――たすけて、なんて、
その言葉にどんな意味があるというのか。どんなに繰り返したところで、その言葉はを救ってはくれなかった。
『!! 兄ちゃんはここだぞ!!』
『っ、』
はく、と口を開けば、土埃が口の中に入った。苦くて惨めな、絶望の味だ。恐怖と失望の日々が、の喉を凍らせる。それでも、耳に届くアリババの声に勇気付けられて、は引き攣る喉を懸命に動かした。
『……ぇて、』
『あぁ?』
ずりずりと引き摺られていく音に紛れてが発した声に、男は怪訝そうな声を上げる。
帰りたい。優しい家族のいる家に帰りたい。アリババがいてアニスがいて、カシムとマリアムがいる。は何もかも無くしてしまったかもしれないけれど、帰る場所ができたのだ。トラウマで閉ざされそうになった口を開いて、顔を上げたはありったけの声で叫んだ。
『たすけて、アリババにいさん!!!』
叫んだ瞬間に、舌打ちをした男に顔を殴られる。バキッと音がして、破裂するような痛みで目の前がチカチカと眩んだ。それでもは朦朧とする視界の中で胸倉を掴みあげようとする男の腕に噛み付き、大声を上げて泣く。こんなに大きい声を出したのは記憶にある限り初めてで、ずっとおそるおそるとしか使っていなかった声帯はみっともなく罅割れた醜い泣き声しか上げれない。それでもは叫んだ。痛かったけれど、踏み付けてを黙らせようとする男が怖かったけれど、大切な家族をは懸命に呼び続けた。助けてと、喉が割れるほどに叫んだ。
『!!』
路地裏に響いた声に、の胸がぎゅうっと熱くなる。早くも腫れ上がった瞼のせいでその姿は見えなかったけれど、の名前を呼んでくれたのは、確かにの家族のアリババだった。
みつけてもらえた。ぽろりと、温かい涙が頬を伝う。後は言葉にならなくて、はうわあああんと赤子のように泣き叫んだ。カシムとアリババが男に棒切れを持って殴りかかり、緩んだ腕に落とされたへとマリアムが駆け寄る。痛め付けられて動けないを支えて歩こうとするマリアムに、アリババたちを弾き飛ばした男の手が伸びるが、その直前で現れた大きな影が勢いよく男を蹴り飛ばした。
『――うちの子に何してくれてんだッ!!』
男を吹き飛ばしたアニスが、マリアムとを抱き寄せる。その後ろからはスラムの住人が続々と顔を出していて、転がされた男は舌打ちをしてその場から走り出した。
『……おふくろにおいしいとこ持ってかれた……』
まさかアニスがやってくるとは思わなかったらしく、アリババたちが呆然と母親を見上げる。わんわんと大きく表情を歪めて泣きじゃくるを抱き締めて、アニスはにっと笑った。よくアリババたちと遊んでいるスラムの子どもが、アリババたちがを探し回っているとアニスに知らせに来たらしい。お前らもよく頑張ったな、とわしゃわしゃ頭を撫で回すアニスの笑顔に、擦り傷の痛みも忘れてアリババとカシムは顔を見合わせて笑った。
『かあさん、にいさん、まりあむ……ッ』
ぐしゃぐしゃとぼろぼろな姿で泣きじゃくるに駆け寄り、アリババたちは口々にの容態を心配する。もうひとりでどっか行くなよ、とアリババに言われたは真っ赤な目元を歪ませてこくこくと頷いた。もうひとりにしねえから、とカシムに言われて、ひとりにしちゃってごめんねと眉を下げるマリアムに、の涙腺はより一層涙を溢れさせる。その内泣き疲れて寝てしまったを見下ろして、アニスやアリババたちは優しく微笑んだのだった。
『ー、遊びに行こうぜ!』
『待ってください、アリババ兄さん!』
あれからは、普通の子どものように笑い泣くようになった。危うかった呂律もすっかり元通りに治ったが、これは先生ごっこを楽しんでいた三人が少し残念がっていたというのは余談である。
『そういえば私とって、どっちがお姉ちゃんなの?』
『あ? だろ』
ふと思いついたようにマリアムが口にした疑問に、当たり前だろとでも言わんばかりのカシムが答える。なんで? と聞き返したマリアムに、カシムは鼻で笑って答えた。
『の方がよっぽどおしとやか』
『えー何それ! お兄ちゃん酷い! アリババもお兄ちゃんに何か言ってやってよ!』
『うーん、でもの方が落ち着いてるのは確かだしなあ』
『聞いた!? うちのお兄ちゃん二人ともこんなんじゃモテないよ!!』
『『んだとコラ!!』』
兄二人に凄まれたマリアムが、きゃーっと楽しそうに悲鳴を上げての後ろに隠れる。マリアムを背に庇ったが、にこにこと微笑んで言った。
『マリアムの活発なところは好きですよ。でも私、マリアムが妹だったら嬉しいです』
『えー、なら妹でいいよー』
『おい』
『なんでには怒らないんだよ』
にはあっさりと頷いたマリアムに、カシムとアリババが不満げにする。の影からべえっと舌を出して、マリアムは笑った。
『だって、お姉ちゃんは意地悪言わないもん』
そう言ってぎゅうっと抱き着いたマリアムを、は優しく抱き返す。アリババたちも結局は仕方なさそうに笑っていて。幸せなきょうだいの肖像が、そこにはあった。
「…………」
懐かしげな笑みを浮かべて、は静かに魔法が映す目の前の映像に見入っている。この辺りはもう、月日による忘却に薄れつつも確かな記憶があるのだろう。ずっと続く平和なこどもたちの日常に欠伸をしたジュダルが、プツッと魔法を消した。
「……ありがとうございました、ジュダルさん」
「別に、礼言われるようなことしてねえし」
頭を下げるに、ジュダルがひらひらと手を振る。そのまま部屋を出ていこうとしたの腕を、白龍が縋るように掴んだ。
「……、」
何か言いたげに唇を歪めた白龍に、は微笑んだまま静かに首を横に振る。謝罪や懺悔は要らないのだ。の生に白龍たちの負うべき責任は無く、はああしてアリババたちに見つけてもらえた。煌の家族をまた、家族と呼べる日もいつか来るだろう。
「私、部屋に戻りますね。カシム兄さんが、心配していると思うので」
「……待て、」
「?」
「お前には要らぬことだろうが、それでも言わせてくれ」
白龍が離した手を、紅炎が掴む。育ての母と同じ髪型をしたの髪飾りに触れ、紅炎は眉間に皺を寄せた。
「……すまなかった。お前を見つけてやれなくて、お前を、むざむざ『死なせて』しまって、本当にすまないと思う」
「……いえ」
「それと、」
悲しそうに首を振ったとしっかり視線を合わせて、紅炎は言葉を重ねる。
「白雄殿たちも、俺たちも、お前を『妹』として大切に思っている。それだけはどうか忘れてくれるな」
ぱちぱちと、が瞬きをする。その仕草は今は亡き彼女の長兄とよく似た仕草で、見守っていた内の何人かは胸が締め付けられる感覚を覚えた。ややあって、が静かに頷く。無言の返答の影で、俯いたの顔は泣くのを堪えるように歪んでいた。
160205
ネタ提供:愛は愛にifアリババルートで煌帝国滞在中にジュダルの透視魔法によってヒロインの過去を見た紅炎たちの反応