――あなたを殺すつもりはなかったわ、それは本当よ。
玉艶の笑みが、瞼の裏に焼き付いていた。
――あなたが白雄たちと一緒にいるなんて思わなかったんだもの……でも、生きていて本当に良かったわ、私の可愛い。
邪悪に笑んだ玉艶の表情が、頭から離れない。母から逃げ出して無我夢中で駆けて、無意識の内に辿りついていたのは家族でよく訪れた庭だった。優しい母。美しい母。大好きで、大切で。
(でも、雄兄様を殺した)
父も兄も、母が殺したのだ。
「……っ、」
ぽたっと、地面に染みが生まれる。一度落ちてしまえば簡単に決壊したそれは、ぽたぽたと幾つもの円を地面に描いた。
「ひっ、うっ……」
どうしたらいいのかわからない。泣いた時いつも優しく慰めてくれた長兄は死んでしまった。明るく励ましてくれた次兄も、不器用にあやしてくれた父も、死んでしまったのだ。
「……?」
ざり、と土を踏む音が響く。見上げれば、そこには一等仲の良かった従兄が立っていて。
「、ですね、目が覚めたんですか……! よかった、本当に心配したんですよ」
泣いているのは父兄を失った痛みからだと思った紅明は、泣いていることには触れず静かにしゃがみこんでの頭にぽん、と手を置く。包帯でぐるぐる巻きにされた小さな従妹の姿がひどく痛ましく思われて。優しい紅明の手に撫でられて、の涙はますます勢いを増して溢れ出た。
「あなたが生きていてよかった」
けれどその紅色に、の心臓はどくんと跳ねる。紅明は、白龍から皇位を奪った紅徳の息子だ。玉艶と共謀している紅徳の、息子なのだ。そして今は、煌帝国の第二皇子。太子は白雄と白蓮の座であったのに、今そこにいるのは父と兄を殺した男の息子たちなのだ。
(知らないのかも、)
紅明たちは白雄たちの死と関わりないのかもしれない。だって紅炎も紅明も、白雄たちの死を悔やみ深く嘆いていたという。今もこうして泣いているに優しくしてくれている。でも、それでも。
(こわい)
だって玉艶も彼らの死を嘆いてみせた。今だってに優しくしてみせた。偽ることなんて、きっととても容易いのだ。大好きな従兄すら信じられなくなって、はかたかたと震える。そっと触れる紅明の手が、例えばの首を締めたら。自分はあっけなく死ぬだろう。はとても弱くて小さくて、戦う術すら持っていないのだ。白雄だって白蓮だって、偉大な父だってあんなに強かったのに、みんな死んでしまった。弱いなど簡単に死んでしまうだろう。白龍と白瑛だって、いつ殺されてしまうかわからない。怖い、誰を信じればいいのかわからないは泣きながら震える。紅明の手に無邪気に甘えることのできていた自分が、ひどく遠くに思えた。
「姫様!? 目覚められたと伺いましたが、出歩いていて大丈夫なのですか?」
「……青龍殿、黒彪殿……」
幽鬼のような足取りでふらふらとやってきた小さな姫の姿に、将軍の二人は目を剥いて立ち上がった。あの大火の中一人生き残ったの左右で色の変わった瞳と大きな火傷痕を見て、二人は目を瞠る。彼らの主とその長子に良く似た瞳は、ぽっかりと青い深淵を映して虚ろに沈んでいた。白雄たちに無邪気に甘えて笑っていた時の眩しい輝きは消え失せ、夜の海のような不穏な静けさに凪いでいる。息絶えた冬の海を思わせる灰色の左目は、白雄たちと共に死んでしまったかのように生気が無かった。
「お二方に、頼みがあるのです」
言葉を失う青龍と黒彪の前で、はかさかさに乾いた唇を開く。父と兄を失い母の裏切りを知り、芽生えた不信を誰にも話せず悩み抜いたは、ひとつの答えを出した。
「私に、戦い方を教えてください」
「なっ……!?」
「何を仰るのですか、様」
狼狽した二人はを思い止まらせようとし、説得を重ねる。きょうだいの中でも白龍と並んで一際泣き虫のを、白徳はひっそりと案じていた。白雄と白蓮が、を戦いから遠ざけたがっていたことも知っている。彼らの亡き今、彼らが守っていたたちを守ることこそが主に先立たれた自分たちに残された役目であろう、と思っていたのに。言葉を尽くして止めようとする青龍たちを、は静かな目で見上げた。
「……ッ!!」
闇よりも深く、昏い大きな瞳。深淵そのものに見返されているような恐怖を覚えて、二人は背筋を震わせる。無垢で幼気な末の姫が見せた静かな激情は、ひどく悲しい色をしていた。
「……私が、やらねばならないんです」
ぽつり、落とされた声は凛と響く。黒々と開いた瞳孔は、光を呑み込んでも底が見えない。
「私が、この手で。やらねばならないと、雄兄様は言いました」
だからやらなくては。お願いしますと、深く頭を下げるに二人は顔を見合わせる。の暗い瞳は、いっそ悲愴なまでの決意をたたえていた。
160112