時はどれだけ、彼女を隠したのだろう。
気丈な姉の背中を追う、学問と鍛錬にしか興味の無い第九皇女。優しく物腰柔らかで、常に落ち着いた雰囲気を崩さない。それが、周囲の人間からに対する概ねの評価だった。泣き虫で、臆病で、人見知り。そんな幼い本来のは、長兄のように冷静であろうと振る舞うの陰に隠れてしまっていた。
「……留学、ですか」
「ええ、あなたが予てより希望していた留学が叶います。いくつかの地を経由しますが、最終な目的地は例の七海連合の盟主と言ってもいい、シンドリアです」
「シンドリア……」
 優しい目でを見下ろす紅明の言葉を、はどこかぼんやりとした様子で繰り返す。そとのせかい。組織の手の届かない場所。紅明の言葉が実感を伴って頭の中に落とし込まれてようやく、の心臓はどくんと跳ね上がった。
 ――お前がやるんだ、
 白雄の声が、褪せることなく頭の中で鳴り響く。左半身を覆う火傷跡が、熱く痛んだような気がした。
ジュダルに導かれ迷宮を攻略した姉を見て、目的のためには金属器は必須であるとは強く思ったけれど、組織のマギであるジュダルの手を借りるわけにもいかず。おまけに今の煌帝国の軍勢は紅炎がほぼ全ての実権を握っている。けれど紅炎は玉艶や紅徳に時折冷めた目を向けつつも敵対はしようとしない。おそらくが彼らに協力を求めたところで逆にが処断されるだろう。この国の誰も、今ある平穏が崩れることなど望んではいないのだ。たとえ築かれた平穏が、悪辣な裏切りによって欺かれたものだとしても。
――外の誰かに、助力を求めなければ。この国はもう、かつて在った煌ではない。
「……? どうしました、どこか具合でも?」
「――いえ、大丈夫です。初めて外に行けるのだと思ったら、嬉しくて。留学の許可を得る後押しをしてくださってありがとうございます、紅明義兄上」
「……ええ、あなたが喜んでくれたなら何よりです。有意義に時間を使うのも大事ですが、どうか楽しんできてください」
「……はい、そうします」
 笑みを形作る時に、火傷跡が引き攣って痛んだような、そんな気がした。紅明は優しい。が紅明に抱く親愛は変わらない。だからこそ、は紅明の優しさが恐ろしかった。

「よう! バカ殿んとこ行くんだってな」
「神官殿……」
「俺も連れてけよ、シンドリアにでっけえ迷宮出してやるから」
「……それはちょっと」
 馴れ馴れしく肩を組んできたジュダルに、は困ったように眉を下げる。迷宮に行きたいのは山々だが、ジュダルの力は借りられない。それにシンドリアには――
「シンドリアにいるチビに、選んでもらおうなんて思うなよ。お前のマギは俺だけだからな」
「っ、」
 シンドリアに滞在しているという少年のマギに頼ろうとする気持ちを見透かしたかのように、ジュダルが突然真顔になっての瞳を覗き込む。どくんと鳴った心臓を懸命に押さえつけて、はからからになった口を開いた。
「その方にもお会いしたいと思っていますが、あくまでお姉様のことでお礼を言うだけですよ」
「……それだけだな?」
「はい、それだけです」
「……ふーん、まあいいや」
「ッ!?」
 ガリッと、唐突に火傷跡のある首筋を噛まれる。痛みと羞恥で顔を真っ赤にしたを見下ろし、ジュダルはニヤニヤと笑った。
「お前のマギは俺だけだってこと、忘れんなよ。約束破ったら、……タダじゃ済まさねえからな」
 赤い瞳がギラギラと嗤う。泣き出したい気持ちを必死に押し隠して、首筋を抑えたままはこくこくと頷いた。

「……そう、留学に……」
「はい、瑛姉様。シンドリアに行って参ります」
「……気を付けて、行ってくるのですよ。海路を使うのですから潮風にはなるべく当たらないように、の綺麗な髪や肌が傷んでしまいます。危ないことはしてはいけませんよ。見知らぬ方に声をかけられても無闇について行かないこと、宴会でも酒は極力避けるように、シンドバッド王も含めて白龍以外の異性に触れられた場所は即座に消毒するように、それから……」
「姉上、俺もついて行くんですからそこまで心配なさらずとも大丈夫です。は俺が守りますから」
「……頼みましたよ、白龍も気を付けて」
 白瑛の怒涛の忠告に、は少し眉を下げつつも笑って頷く。白瑛にも白龍にも玉艶のことは言わずに守ろうとしてきた結果、それまでの臆病さが嘘のようにあっさりと自立してしまったに焦るように兄も姉も過保護になってしまった。それまでも過保護ではあったが、白龍と白瑛の心配症は紅炎や紅明たちにまで気遣われるほどで。
白龍はまさに四六時中の傍にいてかすり傷でも負ったものなら即座に治癒魔法をかけてくるほどだし、白瑛は暇さえあればに触れてあれをしてはいけないこれもいけないと行動を束縛したがるようになった。これも自分が武の道を選んだ故だろう、と思っているは兄姉の行き過ぎた執着を許容してしまっていた。何もかも敵に思えてしまう煌の中で、きょうだいたちといるこの居場所だけが唯一信じられる場所であるからかもしれない。姉が真摯な表情で何度も念押しする言葉に、は疎うこともなく誠実に頷いて応えた。
チリッと、青灰の目が痛んだ。思わず瞬きをしたの視界に、ぼやけた像が映る。
 ――俺達の無念を、
 円卓での両隣に座る白瑛と白龍の間には、空席が二つ。そこに、凛々しく雄々しい彼らの姿をは見たような、気がした。
(ああ、)
 生きていた頃の白雄たちより、白瑛は年上になってしまったのか。白龍もも、もうすぐ彼らに追いついてしまう。けれど時折見える彼らは、ずっとずっと青年のまま。死んだ日のまま。返し忘れた本を差し出した時に、仕方なさそうに笑って抱き上げてくれた時の姿のまま。そのすぐ後に、部屋に賊が踏み入ってきたのだ。
が抱き続けている夢、その残滓が彼らの姿を見せ続けているのだろう。怖くはない、疎ましくもない、彼らがいてくれる限り、はたった一つの夢を忘れずにいられた。白龍と二人で抱えた、大切な夢を。
「……わたし、がんばりますね」
 きょうだいたちを目の前に、は左右色の違う瞳を細めてふわりと微笑んだ。
 
160310
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