「……この国は、良いところですね。人々の活気と笑顔に溢れていて、自由で」
広い景色が見渡せる高い部屋から、はシンドリアの人々を見下ろして言った。その言葉に嘘は無い。本当に、良い国だと思っている。けれどその声は、緊張に強ばっていた。
「そう言ってもらえて嬉しいよ、くん。煌もとても良い国だったけれど、不遜が許されるなら煌にだって負けていないと思っている」
「……本当に、煌が良い国だと思いますか?」
緊張を胸の奥に押し込めて、はシンドバッドを振り向いた。白龍はこの場にはいない。人払いを頼んだにではそちらも一人だけで、と告げられたがそれを受け入れないわけにもいかず。シンドバッドを強く警戒している白龍が心配するのを大丈夫だと何度も言い募って、何とか宥めて面会の時間を得た。
これからの命運を預けようと思っている七海の覇王を前にたったひとりで、心細くないわけがなかった。いつだって傍にいてくれた白龍を、心が求めていないわけがなかった。けれどこれは、がしなければならないことなのだ。
「ああ、美しくて荘厳な、秩序ある国だ。君だって、煌のことを誇りに思っているんだろう?」
「……誇りに、ですか。ならばシンドバッド殿、あなたの態度はおかしいですね」
手のひらに爪を立てて、は喉から声を絞り出した。
「嘘をおっしゃっていますよね、シンドバッド殿。あなたは煌を快く思っていないはずです。侵略戦争を繰り返し、組織を匿っている許し難い国だと、そう思っているはずでは?」
「…………」
の弾劾の声に、シンドバッドは表情ひとつ変えずにをじっと見返す。先を促すように沈黙するシンドバッドに、は言い募った。
「あなたは組織を憎んでいる。組織が巣食う煌を疎んでいる。そんな国を誇る皇女に友好的な態度を見せるなど、シンドバッド殿は何をお考えなのですか?」
「……君は、何が言いたいのかな? 煌を憎んでいるのは、むしろ君のように聞こえるが」
「ええ、そうですね……あの国は、かつて在った煌ではありませんから」
薄い笑みを浮かべるシンドバッドに、は自嘲的な笑みを返す。
「私は、煌を滅ぼします。組織の傀儡と成り果てたあの国を、二つに割る戦争を起こします……シンドバッド殿、どうか私に力をお貸しください。組織に侵されたあの国を、討ち果たすための協力をしてくださいませんか」
藍と青灰の瞳に昏い輝きを宿して拳を重ねるに、シンドバッドは僅かに瞠目してみせる。どこか面白がるような色さえ浮かべて、シンドバッドは口を開いた。
「ずいぶんと危険な賭けに出たものだね。俺が煌と戦争をするリスクより、君を煌の皇帝に売り渡す利益を取るとは考えなかったのかい?」
「元より承知の上です。私には何の力もない。こうしてあなたのような力ある人に頼るための、対価すら持ち合わせていない。私が持ちうるのは、この身一つだけです。危険を冒してでも、行動しなければならないんです」
「……相当な覚悟でこの話を持ち出したようだが、いったいどうして君のような可憐な女性がそこまでして戦おうとする? 俺で良ければ理由を聞かせてもらえないか」
大きな手のひらを差し出したシンドバッドに、は首を横に振る。その瞳に浮かぶ同情と憐れみが、作り物でないとは限らない。まだ協力を得られる可能性も見えていないのに話すわけにはいかないと、はシンドバッドの差し出した手に自らの手を重ねることはしなかった。
「今はただ、組織を討ち果たすことが目的だとしか、申し上げられません。あなたが本当に組織と戦う気があるのか、その確証が得られるまでは」
「そうか……なら、君が確証を得られるまでこの話は保留とさせてもらうよ。いいね?」
「……はい」
一日二日で成る話ではないと、は苦々しい面持ちで頷く。しかしシンドバッドの協力を得られなければ、の宛てはもう何も無い。
「君も白龍くんも、学ぶべきものが多くある。この国でそれを学びながら、俺が信用に値するかどうか見定めるといい。俺も、君に力を貸すかどうかはその中で考えよう」
そのために会ってほしい人物がいると、シンドバッドはの肩を叩く。この話はここで一旦終わりだと、無言の内に告げられた。これが成功だったのか失敗だったのか、にはわからない。けれどまずはシンドバッドが学べと言ったことに向き合おうと、は強く拳を握り締めた。
「…………、」
バルバッド王国元第三王子、アリババ・サルージャ。煌が侵略した国の、被害者。初めて会った時に妙に胸が騒いだのはこういう意味だったのだろうかと、は琥珀色を見上げた。白龍との挨拶を終えたアリババが、を見下ろして少しだけ焦ったような表情を浮かべる。
「あー……えーと、」
「……初めまして。煌帝国第九皇女、練と申します」
アリババは、知っていたはずだ。が自国を侵略した国の皇女だと。彼の愛する国や民を蹂躙した国の皇族だと。何故アリババは、に笑いかけることができたのだろう。の目が綺麗だと言ってくれたのだろう。あの表情や言葉は嘘には思えなかった。それが、余計に不可解で。よろしくと差し出された手を前に、はこてんと首を傾げた。
「恨みに、思っているのではないのですか」
「え?」
「私やお兄様が、憎くはないのですか? あなたの国を侵略した、あなたの居場所を奪った煌の皇族なのに」
それは、純然たる疑問だった。責めるわけでも、呆れているわけでもない。ただ、理解ができなかった。を見るアリババの目には、憤怒の一片すら見い出せないのだ。
「……恨まないよ。そう決めたんだ」
の言葉に一瞬きょとりとしたアリババが、静かな笑みを浮かべて口を開く。どうして仇国の皇女を前に、こんな穏やかな表情ができるのだろう。不快そうな顔を隠しもしない白龍の隣で、はアリババの手をそっと握り返した。
(……変な人だな)
でも、暖かい。太陽のような、どこか安心するぬくもり。その手を離すのが名残惜しいと、少しだけ思ってしまった。
160718