紅玉は、可愛い義妹のことを愛していた。それが情愛なのか、親愛なのかは最早彼女の中ではどうでもいいことであった。
『義姉上、』
剣の稽古の後、汗まみれの紅玉に差し出された小さな手。紅玉よりも小さいその手はしかし、紅玉の手以上に激しい鍛錬の痕が見て取れた。その手で、はそっと紅玉の傷付いた手を癒してくれたのだ。
『私は龍兄様のように、魔法で癒すことはできませんが……』
慣れた手つきで包帯を巻く、の手にはたくさんの古傷があった。きっと今まで、は自分の傷をひとりで手当てしていたのだろう。白龍が魔法で治すと言っても、首を横に振って。
は愛らしく、美しく、清純な義妹だった。どんなに厳しい稽古でも歯を食いしばり槍を振るう姿は、紅玉の目に何よりも綺麗で尊いものに思えた。は優しかった。怜悧に振る舞おうとしても、心の底にある優しさを殺しきれない不完全さが、愛おしかった。
だから紅玉は、気に入らないのだ。背中に寂しさと憂愁を負った清流のような彼の人を、気にかける者の増えた今が。
「本当によろしいのですか、姫」
「はい。決してシンドリアにご迷惑をおかけすることはありません、ジャーファル殿としては複雑にお思いでしょうが、どうかお許しください」
強い決意を秘めた瞳を前に、ジャーファルが眉を下げる。迷宮に行くアリババたちへの同行を願い出たの返答は、ジャーファルの本意とは異なるところにあったのだろう。
「……確かに私はこの国の政務官です。シンドリアの国益を考えて動いています。ですが……姫を心配する気持ちもあるのです」
「心配、ですか?」
「一国の姫を相手に出過ぎた言葉かもしれませんが、迷宮はとても危険なところです。姫もそれは承知の上なのでしょうが……何もかも判っていてなお危険を顧みず向かっていく覚悟が、眩しくも危うく思えるんです」
「……、」
の藍色と青灰の瞳が、ぱちりと瞬きをする。戸惑うように眉を下げたを前に、ジャーファルははにかんだような表情を浮かべた。
「私にもよくわからないのですが、どうしてか姫を目で追ってしまうんです。どうか個人的にあなたを心配することを、お許しいただけませんか?」
「……あ、りがとう、ございます」
白い頬に、僅かに朱が差す。戸惑いつつも照れた表情を浮かべているに、ジャーファルも照れ笑いを返した。
ギリッと、紅玉の奥歯が音を立てる。紅玉にとって何よりも神聖なに、あんな人間的な表情をさせて貶めるジャーファルが憎らしい。は寂しくて美しい人なのだ。真冬の雪の朝のような静謐な美しさを、変えていくこの国が憎らしいと、紅玉は手のひらに爪を立てた。
アリババもジャーファルも、シンドバッドも腹立たしい。皆に優しくしようとする。との距離を縮めていこうとする。冷静そうな無表情の影に隠れたは、人見知りで臆病なのに。紅玉ですら、それに気付くのに多大な時間を要したというのに。アリババたちは当然そんなことなど気付きもせずに、にいろんな表情を浮かべさせようとするのだろう。それは、限られた人間だけが知っていればいいのに。
けれどが他人との接触を苦手にしていることを、彼らに知られたくないような矛盾した感情もあった。近付かないで、どうかを独りにしておいて。そう心は言っている。寂しさが、の美しさだと紅玉は思っていた。
「……男なんて」
機微に無頓着で、独り善がりで。好意や善意だと宣って、人の心の脆い部分に土足で踏み入りたがる生き物なのだ。そんな男たちにの美しさを損なわせたくない。の傷だらけの手を取るべく、紅玉は柱の影から足を踏み出した。
「……」
「……龍兄様?」
部屋で唐突に白龍に抱き締められたは、その行為そのものよりも白龍の体が震えていることに驚いて不安そうな声を上げた。きゅうっと白龍の服の袖を握れば、安堵したように白龍が詰めていた息を吐く。
「……迷宮に、行くなとは言わない」
だから。
「俺を置いて行きはしないだろう、」
シンドリアへ向かう船の中で交わした約束。青の双眸が昏い色を宿して煌めくのを、は静かに受け容れた。
「はい、龍兄様。危険なところではありますが、どうか一緒に来てもらえませんか」
「もちろんだ、。お前の行くところなら、どこへでも」
は白龍を置いて行かない。白龍はから離れない。兄妹の間にある暗黙の摂理に、白龍は安堵の笑みを浮かべた。
「大丈夫。大丈夫だ、お前の願いはきっと叶う。叶えてみせる、夢見てみせる、お前の願いを、俺だけは許すから」
叶わない願いを、叶うはずもない夢を、白龍だけは肯定し続けよう、赦し続けよう。それがの安息ならば。白龍の与える肯定が、に安らぎをもたらすのならば。と同じ夢を見続けると約束したあの日から、幾度となく繰り返されたきた二人だけの内緒の儀式。
の瞼の強ばりが、少しだけ緩む。ずっと気を張り詰めて、休むことなく深い海の底で足掻き続けているような。今は僅かな息継ぎの時なのだ。白龍がいなければ心を休ませることもできない不器用な妹が、どうしようもなく愛おしかった。
160724