父と母が、帰ってこない。
迷宮に乗り込もうとしたトラン族の小さな女の子を説得していたは、その言葉にぐっと唇を噛み締めた。我が身を顧みず両親を救いに危険に飛び込もうとする無謀な少女に、どうしてか幼い自分の姿を重ねてしまう。痛いほどに解ってしまうその心が納得しないとは判っていても、はしかしその頭を優しく撫でた。
「……あなたのご両親は、必ず私たちが助けます。ですから絶対に、あなたはここで待っていてください」
「でも……!!」
「頼れる相手がいる時は、願いを託すことは恥ではありません。もしあなたが迷宮で命を落としたりすれば、悲しむのはあなたのご両親です」
無力であっても、自分しかいないのならば、自身で為さねばならないけれど。この少女には、たちに頼るという選択肢がある。とは違って。不服そうにしていた少女は、の瞳を見上げて息を呑んだ。
「ご両親に、あなたが今感じている悲しみを背負わせないでほしいんです」
ゆらゆらと揺れる、海の青と空の青。その狭間に浮かぶ悲哀の色を直視してしまった少女に、頷く以外のことができるはずもなかった。
「…………」
そんなと少女の会話が漏れ聞こえたアリババは、切実な色を宿したの声に、胸が締め付けられるような感覚を感じた。あの悲壮なまでの決意の色を、どこかで聞いたことがあるような。に似ている誰かをよく知っている気がして、でもそれが誰なのか思い出せなくて。
白龍に呼ばれたが、ハッとしたように振り返る。駆け寄ってきた白龍に申し訳なさそうな笑顔を向けたは、少女を振り向いてその丸い頭を撫でた。
「……絶対、帰ってきてね」
頭に置かれた優しい手のひらをぎゅっと押さえて、少女はを見上げる。
「お母さんとお父さんと一緒に、お姉ちゃんも帰ってきてね。わたし、ちゃんと待ってるから」
「……はい!」
が、慈愛に満ちた笑みで少女に応える。その表情はもうアリババの知っている誰かとは重ならなくて、アリババはどうにも思い出せないモヤモヤとした気持ちを抱えたまま首を傾げたのだった。
「龍兄様!?」
白龍を捕まえてたちの手の届かない高さへと連れ去ったザガンに、が悲鳴にも似た叫びを上げる。白龍は魔法を撃ってザガンから逃れようとするが、生憎彼の使える水魔法はザガンと相性が悪くザガンの嘲笑を深くするばかりだった。
「はいはい、無駄だよー。そんな魔法が僕に効くわけないだろ?」
「くっ……!」
「……龍兄様を返してください、ザガン」
白龍の片足を摘んで宙吊りにし笑うザガンに、が低い声と共に青龍偃月刀の鋒を向ける。傍にいたアリババたちをも震わせるほどに静かな怒りに満ちたその声に、白龍をつついて遊んでいたザガンは浮薄な笑みを消してを見据え、ぱちりと瞬きをした。
「……ふーん?」
一人納得したように鼻を鳴らしたザガンは、白龍をぶらぶらと空中で振り回す。の纏う空気が怒りを通り越して触れれば切れそうな殺気へと変わったことを感じ取って、ザガンは溜め息を吐いた。
「あの方も、なんでこんな人間くさく作ったんだか……」
「何?」
呟きにも等しい声を聞き取れたのは捕まっていた白龍だけで、けれど詰問するような目を向けた白龍を見下してザガンはニヤリと笑う。
「いいよ、返してあげる――宝物庫まで、来れたらね!」
「龍兄様!!」
「……っ!」
白龍を掴んだまま去っていこうとするザガンに追いすがろうとするだったが、迷宮の主であるジンに追いつけるわけもない。必死に手を伸ばす白龍の姿はどんどん小さくなっていって、懸命に走るにザガンの声だけが降ってきた。
「だってこれ、邪魔でしょ? キミはお兄さんを守ることばかり気にして、ちっとも本気で戦ってない。それじゃあ困るんだよねー」
「……っ、」
「どうせ魔法使いは王に選ばれないんだ、お荷物がない方が気兼ねなく自分のことに集中できるだろ? 僕って優しい!」
「龍兄様は、お荷物なんかじゃ……!!」
「反論はゴールで聞いてあげるよ」
ガゴっと音がして、の足元の床が崩れる。転落しそうになったはモルジアナが何とか引き上げたが、の表情は焦燥と不安で暗く翳っていて。
「……龍兄様、」
「大丈夫だ、皆で白龍を助けに行こう」
アリババの差し出した手を、は少しの逡巡の後に見なかったことにして一人で立ち上がる。守るべき人を、むざむざ連れ去られてしまった。自分がもっとしっかりしていれば。白龍を守れない自分に価値はない。しかもザガンの言葉は、姉妹よりも白兵戦で弱いことを気にしている白龍の脆い部分を抉ったに違いない。はやく、助けに行かなければ。はやく、はやく――
(ああ、……ああ、ダメだ。私、龍兄様がいないと、)
冷静とは程遠い。頭の中がぐるぐると渦を巻いて、まともに思考を描けない。白龍の存在を欠いただけでこんなに混乱するなど、どれだけ自分が白龍に寄りかかっていたのかを思い知らされる。それでも、が行かなければ。がやらなければ。白龍は、を呼んでくれたのだ。不甲斐ない妹を呼んで、手を伸ばしてくれた。
「……行きましょう、」
槍を支えに二本の足で立ち、ショックで脱力していた体を叱責する。一刻も早く白龍を救出する。金属器もジンも二の次だ。真っ直ぐに歩み始めたの後を、アリババたちは心配そうな色を宿してついて行った。が彼らの表情に気付くことは、なかったけれど。
160811