「……ちゃん、」
「義姉上?」
泣きそうな顔で部屋に入ってきた紅玉に、は何かあったのかと慌てて駆け寄る。の細いが硬い手をぎゅうっと掴んで引き寄せて、紅玉は唇を噛み締めた。
「ジュダルちゃんが……!」
「神官殿……? 宣戦布告をしたという話ですか? それならもう、シンドバッド殿と義姉上の間で和解がなされたと伺いましたが……」
「違うのよぉ、それじゃなくて、」
震えながら紅玉が告げた内容に、もまた凍り付いた後恐怖で震え出した。
***
「……が、迷宮に、行った?」
光を喰らい尽くすような紅い瞳。地の底を這うような低い声。突然の侵入者を警戒して取り囲んでいたシンドリアの兵士たちは、皆残らず震え上がった。
「へぇー……誰と?」
「えっと、……」
「なあ、誰と?」
据わった目に睨めつけられ、詰問を受ける紅玉に周りの人間は皆全力で同情した。心無しか南国のはずの気温が恐ろしく低いような。まさか怒りのあまり無意識に周囲のルフに働きかけているのだろうか。創世の魔法使いの悋気が引き起こすかもしれない被害に眩暈がしそうになったジャーファルだった。
「白龍ちゃんと、アラジンたち三人とよぉ……」
「ふぅん……、ふーん、へぇ……」
「……随分とご機嫌斜めだな、ジュダル」
声色はいっそ楽しそうですらあるのに、欠片の笑みも浮かんでいない。不気味なジュダルに怯える紅玉を庇うように前に出たシンドバッドの顔は、真顔のままこてんと首を傾げたジュダルの人形じみた動きに引き攣った。
「俺、ちゃんと言ったんだぜ? お前のマギは俺だけだって」
約束もしてたのによー、とジュダルは大仰に空を仰ぐ。
「タダじゃ済まさねえって言ったのになー、俺すっげー傷付いたわ。誰が自分の所有物なのか、きっちり教え込んでやらねーと。今から追いかけて躾けてくるか」
「いや、今からだと遅いと思うぞ……」
「へぇー、もう終わってんだ、ふーん」
両手を頭の後ろで組んだジュダルは、くるくると回るように歩きながら独り言のように言う。
「――選ばれずに帰ってきたら弄り倒す」
「え?」
「女のジンに選ばれてたら虐め倒す。男のジンに選ばれてたら……」
「………………」
「ナニ、シてもらおうかな」
ニヤリと、ここへ来て初めてジュダルの表情が動いた。けれどその笑みは、あまりに歪んだもので。
「ちゃんと伝えとけよ、紅玉。俺は煌帝国で、イイコにして楽しみに待ってるって」
「………………」
「ちゃん、気を確かにもって!」
頭を抱えてその場に蹲ったを、紅玉がほぼ半泣きで一生懸命に励ます。女のジンならまだ大丈夫よ、ねっ? と言う紅玉に、は死んだ魚のような目で首を横に振った。ザガンはどこからどう見ても男なんです、というの絶望が伝わった紅玉の目からも、光が消えた。
「ザガン、性転換とかできませんか……?」
「自分の魔力使ってまで呼び出してもらって悪いけど、無理言わないでくれる?」
「ですよね……!」
紅玉と一緒になってあうあうと嘆くに、ザガンは溜息を吐いて言う。
「くんを性転換させることはできるけど?」
「ちゃんがして何の意味があるのよぉ!?」
「あ、じゃあそれで……」
「ちゃんも落ち着いて! 白龍ちゃんと白瑛が泣くわぁ!?」
余計にを混乱させただけのザガンに、紅玉は早く帰れと手で払う仕草をする。の膨大な魔力をいいことに現界していたザガンも、元より長くいるつもりはなかったので素直に八芒星へと戻っていった、が。
の傍をチラチラと舞う黒いルフに、ザガンは金属器へと戻る刹那顔を歪めた。そしてそれを見逃したことで、彼は後悔という感情を突き付けられることになる。
「!!」
シンドバッドから先日の話の承諾を得られて舞い上がるの左腕が、突如ぼとりと落ちた。え、と漏れた自分の声も、血相を変えた白龍の叫びも、どこか遠くのように聞こえた。地面に転がって黒いルフに食い破られたそれが、自分の腕だとすぐには認識できなくて。
「あ、ああああああ!!」
宴の空気が、瞬く間に恐慌に塗り替えられる。白龍の腕の中で愕然と肘から先が無い左腕を見つめるを見下ろして、の腕に巣食っていた男――イスナーンは、口角を吊り上げて哂った。
「君の中はとても居心地が良かったよ、皇女様」
ああ、でも、君のお母様には怒られてしまうかもしれないな。母という言葉にピクリとの耳が動いた。それを目敏く見つけたイスナーンは、嘲るように言う。
「大人しくあれの庇護下にいれば良いものを……君の進む道は、何も君に益をもたらさないどころか何もかもを奪い尽くしていくだろう。左腕だけで済めばいいがな」
「……私に何が残らずとも、」
左腕を押さえて、はイスナーンを見返す。
「残らなくてもいい、私が残しますから」
あるべき人の元へ、あるべきものを。
強い意思を宿す藍色と青灰に、イスナーンは目を細めた。
「……運命の人形が、愛の夢を見るか」
哀れなことだ、そう呟いてイスナーンは姿を消す。ボロボロと涙を零す白龍を見上げて、は霞んでいく景色の中うっすらと微笑んで白龍に手を伸ばした。
残るものは、あなたへ。
もしも自身さえ残らないとしても、白龍が残るのならばそれでいいとさえ、思える自分がいた。
160812