「腕の容態はどうかな、くん」
「……おかげさまで、痛みはありません」
「そうか、良かった。もっとも、君の手当てをしたのは専ら白龍くんなのだろうけど」
 イスナーンの呪いを打ち破ったシンドバッドが、を自室へと呼んだ。ぺたりと腕のあるべき部分が潰れた袖を、シンドバッドは痛ましそうに見つめる。椅子に腰掛けたへ歩み寄ったシンドバッドは、ゆっくりと屈んでの頬をそっと撫でた。
「……君への承諾を取り消すつもりはないが……君はこんなことになっても、国を割る目的を変えないのかい?」
「はい。例え片腕でも、私は目的を果たします」
「君は何故、そうまでして自分の国を滅ぼそうとしているんだ」
 シンドバッドの金色の瞳から目を逸らし、は逡巡する。けれど、シンドバッドから助力の約束を得た以上は話さなければならないだろうと、は左肩をぎゅっと握り締めた。
「……お兄様が、殺されたんです」
「……!」
「兄の名前は、練白雄と練白蓮。中原を平定した偉大な大帝――練白徳の血を色濃く継いだ、有望な皇子でした。誰もが、煌の輝かしい未来を信じて疑わなかった」
 けれど、煌は変貌していった。彼女たちの母が呼び寄せた、組織の手によって。
「兄が、どうやって組織の暗部に近付いたのか、私にはわかりません……ですが、気付いたときにはもう、後戻りできないところまで足を踏み入れてしまっていたのでしょう」
「お兄さんは、組織に消されたのか」
「…………」
「君の火傷も、その時のものなのか」
「……ええ、兄は組織の手にかかり……私だけが、生き残りました。私は、兄に生かされたんです」
「それで、復讐を?」
「兄に託されたんです、仇を討てと。使命を果たせと……もう組織は、煌の国そのものと言ってもいいほどに深く根を張っています。煌を滅ぼしてでも組織を討ち果たさなければ、私が生き永らえた意味など……どこにもないんです」
くん、」
 シンドバッドが、自らの肩を掴むの手に自分の手を重ねる。大きな手のひらの体温にびくりと体を揺らしたの頬を包み込むようにもう片方の手で触れて、シンドバッドはの瞳を覗き込んだ。
「復讐にしか自分の生に意味がないなど、そんなことを思ってはいけない。君のお兄さんの本意もきっと、そんなものではなかったはずだ」
「あなたに、何が……」
「俺にはわからずとも、白龍くんを見ていればわかる。君のお兄さんたちは、白龍くんと同じように君を愛していたんだろう。ならきっと、大切な妹が自分たちのために復讐に生を捧げるなんて、許容できないはずだ」
 シンドバッドの言葉に、はぐっと唇を噛み締める。そうだとしても、もしそうだとしても、は――復讐をしなければならないのだ。白雄に、託されたのだから。
「……くんは、煌が大好きだったんだね。父君や兄君たちが、治めていた頃の煌が」
 慈しみを込めた声で、シンドバッドは言う。否定する理由もなく、は静かに頷いた。
「君はまるで、煌という国に恋をしているみたいだ。愛しているから、好きだから、変わってしまったことが許せない。裏切られた恋を、憎しみだと言い聞かせているように思えるよ」
「……それでも、私は」
「俺は、組織を許せとは言わない。俺はあの組織を否定する。だから君が組織と戦うのなら、惜しみなく手を貸そう。だが……」
 シンドバッドはそっと、の華奢な体を抱き締めた。
「君のような可憐な女の子が、復讐のために自分の人生を費やすのを、放ってはおけない」
「…………」
「俺には、君のお兄さんが君にあげたかった人生がわかる気がするんだ。幸せに、笑顔で生きてほしい。正しいことのために戦うとしても、せめてその傷を守れる誰かが傍にいてくれるような、ぬくもりに満ちた人生を」
 シンドバッドに抱き締められたの心臓は、鼓動を速めることもない。ただ疑問の色を浮かべて、は目の前の深い紫色を見つめていた。
「俺がくんのお兄さんたちの代わりに、君にそんな人生を贈ろうとしたら、君は受け取ってくれるかい?」
 そっと身を引いたシンドバッドが、の右手を自分の両手で包み込む。頬を赤らめることもないは、静かに首を横に振った。
「お兄様たちの代わりは、どこにもいません。私たちが望んだ未来は、私たちだけのものです。もう叶わなくても、一緒に夢見てくれる人がいるから……だから私は、」
 今更平穏な人生に、逃げたりできません。
椅子から立ち上がったは、そっとシンドバッドの手を振り解く。そのまま、はシンドバッドの前を辞した。
「……怖いんだね」
 一人になった部屋で、シンドバッドはぽつりと呟く。は本来優しくて繊細で、臆病な人間だ。そんな彼女が使命を果たそうと、冷徹で苛烈な人間になるためには、ありえたはずの幸せも笑顔も捨て去って、自らを復讐のための機械か何かのように思い込むしかないのだろう。そうしないと、刃が鈍るから。刃を向けた先にいる誰かは誰かの大切な人であると、わからないふりをしなければその誰かを斬れないから。
はきっと、幸せになりたくないのだ。自ら望んで、自分の幸せを捨てていく。本当に大切なものを――使命と残った家族を、守り切るために。
「アリババくんたちには、ずいぶん心を許していたように見えたんだがな……」
 失敗してしまったな、とシンドバッドは呟く。それでもまだ機会はあるだろうと、シンドバッドはの残り香を鼻腔に感じて微笑んだ。寂しい、夜の海のような少女。それでいて、焔を身の内に宿しているような皇女。あの傷をこの手で慈しんでいてあげたいと、不可思議な情動を抱いてしまったのが可笑しくて。けれどそれも悪くないと、シンドバッドは笑うのだった。
 
160816
BACK