寝付けない。
自覚したアリババへの恋心を持て余し、寝台の中でもだもだと意味の無い動きを繰り返していたは、頭を冷やして落ち着こうと寝台を抜け出した。の気配に敏い白龍がいれば夜中の単独行動を見咎められただろうが、幸か不幸か白龍は今日は黒秤宮で徹夜をするから戻らないと言っていた。夜風にでも当たればこの頬の熱も収まるだろうと、はそっと夜の空気の中へと足を踏み出した。

「きれい……」
 バルコニーから見上げれば、紺碧の夜空を彩る金剛石のような星の数々。果てのない万華鏡のような光景に、は思わずため息にも似た感嘆の声を漏らしていた。
静かな夜空を見上げるの脳裏に浮かぶ、幼い日の追憶。怖い夢を見て寝れなくなった日、いつも兄姉の部屋に忍び込んでいた。臆病なを笑うこともなく、優しく迎えてくれたきょうだいたち。皆、が寝付くまで傍にいて、手を握っていてくれた。同じ布団の中で、本を読んでもらった日もあった。時折訪れる秘密の時間の中で一度だけ、白蓮が夜空を見に連れ出してくれたことがあって。
 『兄上たちには内緒だぞ、絶対内緒だぞ?』
 そう言って、を抱きかかえて城の屋根の上に上った白蓮。暖かい毛布に包まって、兄の腕の中で星空を見上げた。あの星の名前は何だとか、道に迷った時に方角を教えてくれる星だとか、白蓮が話してくれる星の話に夢中になって耳を傾けて。
そうしている内に結局白雄に見つかってしまって、二人揃って叱られて。でも溜め息を吐いた白雄は、今日だけだと言ってに内緒の夜更かしを許してくれた。白雄と白蓮との三人で、夜空を埋め尽くすほどの星を見上げて。白蓮が見つけた流れ星をきっかけに、競って流れ星の数を数えた。白雄は驚くほどたくさんの流れ星を見つけて、白蓮を悔しがらせて。は、ひとつも見つけることができなかったけれど、それで良かったのだ。あの時、確かにの願いごとは実現していたのだから。
「――必ず、」
 どんなに幸せでも、恋を知っても、は忘れない。あの密やかな幸福の夜を奪った母の嘲笑を。忘れてなるものか。幼い日々を思い返す幸せの分だけ、許せない想いは募る。足掛かりは得たのだ、優しい兄を殺した母へ、復讐の刃を突き立てるための。
「……姫?」
 怪訝そうな声にハッとして振り向けば、そこには心配そうな表情のジャーファルが立っていて。眠れないのですか? と問う彼の言葉に、は躊躇いながらも頷いた。

「どうぞ、安眠作用のあるお茶です」
「あ、ありがとうございます」
 ジャーファルが机に置いたお茶を前に、は申し訳なさそうに頭を下げる。あまり体を冷やしてしまっては良くないからと、ジャーファルの執務室に通されたは落ち着かなさそうに辺りを見回した。寝付けないままに部屋に戻っても休めないだろうというジャーファルの言葉に甘えてついてきたが、何だか緊張する。そんなにクスリと笑ったジャーファルに、は何だか既視感を覚えて目を瞬いた。
「大丈夫ですよ、白龍皇子に言いつけたりしませんから」
『大丈夫だ、。白龍たちには内緒だから』
 星空を見に行った夜、屋根を下りた白雄たちは使用人に頼んで葛湯を貰ってきてくれた。これを飲んだら一緒に寝ようか、そう笑った白雄たち。白龍や白瑛の好物でもあるそれを一人で飲んでしまっていいのだろうかと悩むに、そう言って悪戯っぽく笑って。穏やかで、少しだけ悪戯じみた笑い声が、ほんの少し長兄に重なった。
「……ありがとうございます、ジャーファル殿」
 表情を緩めて、はそっとお茶に口をつける。優しい甘さが口に広がって、冷たい貴石のようなの瞳にぬくもりが灯った。その様子を目にしたジャーファルは、穏やかな表情のまま口を開く。
「――今の内に死んでおいた方が、幸せかもしれませんよ」
「……え?」
 放たれた言葉の不穏さに思わず顔を上げるも、ジャーファルの笑顔は相も変わらず優しいままだ。小さなこどもを見るような慈しみの眼差しのまま、ジャーファルは残酷にも思える言葉をに突き立てる。
「大切な兄に理解してもらえて、目的への足掛かりも見えて、友人ができて、恋を知って。姫は今、幸せなのでしょう。希望を抱いているのでしょう?」
「っ、」
「なら、満たされている内に死んでしまった方がいい。あなたはこれから、失うばかりです。あなたの破滅を見るのは、偲びない」
「ジャーファル殿……?」
「あなたの罪が安らぎを食い潰す前に、私があなたに安息を与えましょう。あなたが、望むのなら」
 にこにこと、優しい笑顔のジャーファルは懐から彼の刃を取り出す。が望むのなら、痛みなど感じる暇もなく頚動脈をかき切って安らぎの内に絶命させてあげようと、ジャーファルは本心からの善意でに告げていた。
「……要り、ません。必要ありません、安息への逃避など」
「そうですか? あなたはきっと、後悔すると思いますよ」
 ジャーファルの言葉に、はぐっと唇を噛む。今でも迷いだらけだ。母はともかく、義兄たちと敵対する決断をできていない。けれど決めなければ、その迷いに足を取られての夢は死に絶えるのだ。どちらにしろ――そう、どちらにしろ。
「どちらにしろ、後悔をしないことなんてありません。本当の安息なんて、どこにもないんです。それこそ、死の中にしか」
「それでも、死の安らぎは必要ないと?」
「……私が死ぬときは、私の贖罪が潰えるときです。罪は裁かれなくては」
 きっと死ですら、に安息をもたらさない。が本当に安らげるのは、全てが終わった時だけ。目的を果たして、救えなかった罪を贖ったなら。その時はきっと、は安らぎの夜に帰れる。
「……残念です。ですが、いつでも気が変わったらおっしゃってください。腕は鈍らせませんから」
「お気持ちだけ、ありがたく頂いておきます」
 冷めたお茶を、喉の奥に流し込む。どこまでも優しい、けれどその優しさが毒になるような、そんな味だった。
 
160919
ネタ提供:ジャーファルさんと真夜中ティータイム
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