「君も、もう行くのかい? くん」
一足先に船に乗り込んだ兄や仲間たちを追いかけて乗り込もうとしたの腕を、そっと掴んだ大きな手があった。振り向いたを、シンドバッドとジャーファルが優しい目で見下ろしていた。先日の一件もありどことなくジャーファルに怯えた様子を見せるを、そうと知ってか知らずかシンドバッドは面白がるような目で見ている。
「……はい。お世話になりました、シンドバッド殿、ジャーファル殿」
頭を下げたはさり気なくシンドバッドの手を解こうとするが、やんわりとそれを抑え込まれて逆に手を包み込むように握られる。白龍以外の異性に触れられることに慣れていないは、困ったように眉を下げる。シンドバッドの手のひらの温度は高く、その温かさに侵食されそうになるのが怖い。とはいえあからさまに振り解くわけにもいかないのでおろおろとしているを、シンドバッドはやはり楽しそうに見ていた。隣に控えているジャーファルは、そんな主に遊ばれているを哀れむように見ている。
「シン、姫が困っていますよ」
「ああ、すまないね。くんは綺麗だから、つい触れたくなってしまうんだ」
ニコッと笑んだシンドバッドから、は気恥ずかしくて目を逸らす。の反応を見て遊ぶことに満足したのか、シンドバッドはの手を開かせて持っていたものを握らせると、最後にするりと白い手の甲を撫でてから手を離した。びくりと震えたが自分の手の中を見下ろすと、そこにはアラジンがヤムライハから渡されていたものと同じ魔法道具があった。
「これは……」
「そう、ルフの瞳だ。何かあったらいつでも、これで俺を頼ってくれ」
「……ありがとうございます、シンドバッド殿」
ルフの瞳を受け取ったが踵を返そうとするも、柔らかい眼差しの奥に何か仄暗いものを孕んだシンドバッドの視線がを捕らえる。大きな掌を差し出して、シンドバッドはにこやかにに告げた。
「ここにずっといてもいいんだよ、くん」
「…………」
「君は魅力的な女性だ。能力や才覚に恵まれても努力を怠らず、ジンに選ばれても尚前だけを見ている。ひたむきに真っ直ぐな君を、ただ争いのために煌に返すのは惜しい」
「……神官殿から、何か言われたのですか?」
の実力を高く買うようなシンドバッドの物言いが、誰かと重なった。シンドバッドの知り合いで、を過大評価している人物といえばジュダルしか思いつかず、こてんとは首を傾げた。
「鋭いな、女性の勘というやつか。確かにジュダルからは君の話を聞いているが、俺自身が君を高く評価しているんだよ」
――お前と組もうかなって思ったこともあったけど、もういいんだよ、それ。
バルバッドでジュダルが誇らしげに語っていた言葉が、シンドバッドの脳裏を過ぎる。
『俺の国には最高の王候補がいるからよ。練っていう、資質も気性も実力も、俺の王サマに一番相応しいヤツが。あいつはいいぜ? まずありえないくらい強くなる。無限の魔力を放出してかっ飛ぶ化け物だ、が金属器使いになったら間違いなく最強になるぜ? それに何より目が最高だな、可愛い顔して時々、紅炎よりも白雄よりもヤバい目すんだよ、あいつ』
について語るジュダルは、不健康なまでに白い頬を赤く上気させて、胸に手を当てて、瞳を輝かせて。それはまるで恋する乙女のような有様だったことを思い出す。ジュダルというマギは、練という少女に心底から惚れ込んでいるのだと、彼の全身がそう語っていた。
だからシンドリアにがやってくると聞いて、多少なりとも興味は抱いていた。思った以上に幼くて、可愛らしくて、到底ジュダルの言うような王の器には思えなかったけれど。それでも惚れた欲目かとを侮るには、彼女の持つ資質と危ういまでの愚直さは相当なものがあった。シンドバッドのように広く多角的なものの見方をしない、けれど一点しか見ないからこそ、突き抜けていく真っ直ぐな強さ。彼女はその気になったら必ずそれを成し遂げるだろうと思わせる、意志の固さ。その愚直さが周りを惹き付ける。目を向けずにはいられない、危うく儚い美しさ。金属器を得て、ただ一人の兄の理解を得たは如何なる障壁をも貫いて進むだろう。願った夢の、その残滓以外の全てを、失うとしても。
「君はきっと、生きていくほどに多くのものを失くしていく。君は強いが、だからこそ多くを棄ててしまうんだろう? 俺の元にいれば、俺が君に与えてあげることができる。何も失う必要は無いんだ。煌だって、俺が何とかしてあげてもいい」
だからこの手を取りなさいと。シンドバッドの与える安寧に身を委ね、幸せに生きなさいと。確かに、それは魅力的な提案だった。臆病なは、いつだって戦いから逃げたいのだから。それでも。
「いいえ、シンドバッド殿。私がやらねばならないことなのです。あなたの力を借りるとしても、あなたに頼り切ってはいけないんです。何もしないで、他人がどうにかしてくれるのを待つなど……それでは、償いにもなりはしない」
「……そうして君は、償いのために全てを失うのかい?」
「そうかもしれません。でも、いいんです。全てを失くしたとしても、その最果てで、かつて見た夢をもう一度だけ見れるなら」
復讐の旅路の果てに、に復讐を託した白雄の笑顔が見たい。の中の白雄たちは今も笑ってくれない、哭いている。彼らの最期の望みを叶えなければ。託された使命を果たさなければ。そうすればきっと、炎の中の白雄たちは、笑ってくれるような、そんな気がした。もう一度だけ、家族みんなで、煌の未来を。
「私は煌を救います、煌を、壊してでも」
すうっと、の目が細まる。その目は、氷のような鋭さと、白い炎のような苛烈さを孕んでいて。
(――ああ、ジュダルは、)
シンドバッドの背筋に、ゾクゾクとした感覚が走る。興奮なのか、嫌悪感なのか。わからないが、ただ惹かれると。ようやくジュダルの言を理解できたシンドバッドは、去っていくを名残惜しくも見送るのだった。
161003