意味も知らず、恋の歌を歌っていた。旋律がきれいだったから。音色が暖かったから。言葉の響きが好きだったから。そんな幼い歌を、上手だと褒めてくれた人がいた。その人のことを好きなのだと、幼心に思っていた。自分はきっとこの人に恋をしているのだと、愚かだけれども誠実に愛した。大好きだった。ずっと一緒にいたかった。それだけで充分だなんて、本当はそれが、どれだけ贅沢な願いかも知らずに。
白龍に手を引かれて歩くの瞳に、未だに光は無い。正気なのか、未だに狂気に囚われているのか。不安げにを窺うアリババたちだったが、アリババたちを攻撃することもなく、白龍が話しかける言葉に真っ当な反応を見せているのできっと大丈夫だろうと、彼らは自身に言い聞かせていた。
「その女を殺せ!!」
物騒で悲痛な叫びに、アリババたちは声の出どころを振り向く。アクティア軍に捕縛された大聖母が、港の人々に石や罵声を投げつけられていた。
大切なものを奪われた人々。大切な人を殺された人々。憎しみや怨嗟は連鎖的に燃え上がり、大聖母を取り囲む人々を狂奔へと駆り立てる。殺せ、殺せと声が木霊する。アクティアの兵士も罪人である大聖母を庇う気はないのか、大聖母へと伸びる人々の手を制止することはなかった。ぎゃあ、と屠殺される獣にも似た悲鳴が上がる。このままでは私刑に遭い殺されるだろう大聖母に、アリババたちは血相を変えて民衆の凶行を止めなければ、と動くものの。
「 」
とん、と軽やかな足取りでが動いた。白龍と繋いでいた手は解け、人々の間を苦もなくすり抜け大聖母の元へと真っ直ぐに向かう。やはりまだ魔法の効果は切れておらず、が大聖母を助けるつもりなのではないかと白龍やアリババたちは懸命にを呼び止めようとした。の姿に気付いた大聖母も、助けてと、母を助けてと、笑顔を見せての名を呼ぶ。にこりと笑って腰の剣を抜いたの表情は、聖女のような清らかさで。
「ああ、……!?」
大上段に振りかぶった剣を、は躊躇いなく振り下ろした。大聖母の、首をめがけて。
一太刀で断たれた首が、あまりに軽く宙を舞う。噴き出した血が、首のない大聖母の体を赤く濡らした。どしゃ、と重い音がして地面に大聖母の頭が落ちる。そして港には、沈黙が広がった。
大聖母を罵倒していた人々も、悲痛に叫んでいた海賊の子どもたちも、を止めようとしていたアリババたちも、その場に凍り付いて何も言えなくなる。ただ一人、沈黙に囚われていないの瞳に、ぼんやりと光が灯る。その瞳が目の前の現実を正しく認識すると、はぽつりと呟いた。
「……、」
「!!」
その呟きは痛切な呼び声に遮られ、誰の耳に届くこともなく消える。がくんと揺れる感覚に、は自らの腕を掴んだ人物を振り向いた。そこにいたのは、泣きそうな顔のアリババ。何故だか、胸が痛んだ。
「、なんで……なんでこんなことを!」
「…………」
「お前は、こんなことするようなやつじゃないだろ!?」
の両肩を掴んで、表情を歪めてアリババがに問う。の頭の中は空白になって、ただ呆然とアリババの泣きそうな顔を見ていた。両肩をぎりぎりと締め付ける、アリババの手の力強さが痛い。その手のひらから伝わる、熱いほどの体温が痛い。何か、何か答えなければ。そう焦る気持ちが生まれるも、はこの優しい人を泣かせずに済む答えを持っていないのだ。どうしよう、揺れる瞳のを救ったのは、をアリババから引き離して抱き寄せた白龍の腕だった。
「……は、賊の首領を処刑しただけでしょう。何か問題でも?」
「龍兄様……」
「白龍……は、縛られて何の抵抗もできない人が、助けを求めているのを殺したんだぞ……!?」
「っ、」
「どのみち処刑台に送られる人間です。もっとも先程の様子なら、処刑台に上がる前に私刑で死んでいたでしょうが。あのまま嬲り殺しにされるよりは、慈悲のある最期だったと思いますよ」
「……! はどうして、大聖母を殺したんだ!?」
「……あの人が、自分の母親に見えていたんです。殺して魔法が解ける、その瞬間まで」
「!? なら、なおさら……」
自分の母親に見えていた人間を殺す道理はないと、アリババは言い募る。けれどは、静かに首を横に振った。
「私には、どうしても殺さなければならない相手がいるんです。たとえ何があっても殺すと決めている人間が、一人だけいるんです」
「……!?」
「、良いのか」
真実を話していいのかと、気遣わしげにを見下ろした白龍に、はぎゅっと唇を噛み締めて頷いた。
「アリババ殿。私、前にお話ししたと思うんです。家族は、組織に奪われたと。兄と父は、組織に殺されたと」
「……まさか、」
「練玉艶。私たちの父と兄を殺し、煌帝国に巣食うアル・サーメンの魔女。私たちの母親で……私が、討たなければならない仇です」
の言葉に、アリババも、モルジアナもアラジンも目を見開く。自分の母親が組織の魔女だと言うの目は、昏い色に閉ざされていた。その隣の白龍が特に驚いた様子もなく、ただを気遣わしげに見ていることに尚更アリババは信じられない気持ちになる。白龍は、知っていてなおを止めてやろうとしないのだ。
絶句したアリババたちの耳に、海賊の子どもたちの悲鳴とアクティアの兵士の呻き声、そして鈍い音が届く。何事だとそちらを見れば、オルバと呼ばれていた海賊の子どもが義手を外して縄を抜け、兵士から剣を奪い取ってへと向かってくるところだった。溢れ出る憎しみに瞳をぎらつかせ、剣先を真っ直ぐに向けて突っ込んでくる、小さな子ども。が動く前に、白龍がオルバを防壁魔法で弾き飛ばした。そして、空気中の水分を集めてオルバの周囲に水の槍を顕現させる。愛しい妹に刃を向けた罪は重いのだと、怒りがありありと読み取れる瞳の白龍は、槍をオルバに突き刺さそうとするが。
「――かわいそうに」
しゃがみ込んだが、防壁魔法越しにオルバの憎々しげな視線を受け止めた。振り向いたが白龍に制止を目で訴え、白龍は逡巡の後槍を宙で固定していつでも放てる態勢を保つに留める。は、静かにオルバと目を合わせた。
「家族から引き離されて、偽りの愛情を与えられて。都合の良い手駒として利用され続けても、家族ごっこが終わっても、その仇を討とうとするほど『母親』が愛しいと思えるなんて、」
「テメェ……!!」
侮辱とも取れる言葉に目を剥くオルバだったが、その左右異なる色の瞳に浮かぶ感情に、ヒュッと引き攣った音を出す。憎悪と混ざってオルバの表情を染め上げたのは、恐慌と畏怖だった。
嫌味でも侮蔑でもない、あまりに綺麗で純粋な哀れみの色。踏み潰された虫を見て幼子が漏らすような、稚い同情。そして僅かばかり、物珍しいものを見るような色が混ざっている。まるで、自分には得難い感情に触れて、それを自分の中に落とし込もうとするような。目の前にいる少女は自分より年上に見えるのに、その表情を見ていると、自分よりも年下の子どもを見ているようで。こんな幼い人間に、大聖母は殺されたというのか。明確で純粋な、殺意をもって。
「大聖母にも、可哀想なことをしました」
深い憐憫の滲む瞳と、淡々と祈るように紡ぐ声。聖者のように清らかなのに、どこかが致命的に狂っている。オルバは、ぞっと悪寒が背筋に走るのを感じた。
「私に自分を母親と誤認させたばかりに、惨い最期を迎えさせてしまって……本来なら、処刑されるまでに自らの罪を省みる時間があったはずなのに」
「……お前、は、大聖母が、処刑されて当然だったって言うのかよ……!?」
「どうして、処刑されないと思えるのですか? 彼女は多くのものを奪い、奪わせた。処刑であれ、どんな形であれ……罪は、贖われるものでしょう。報わない罪など無い」
慄くオルバを、ようやく動いたアクティアの兵士たちが取り押さえる。白龍を振り向いて水の槍を収めるようにと頼んだは、立ち上がってオルバを見下ろした。
「私もあなたも、いずれ必ず報われる。自らの罪を贖う時が来る。あなたにとっては、それが今日だったかもしれないというだけのことです」
「俺が何を、」
「奪ったのでしょう、誰かの母親を。あなただけが、奪われない理由は無い。私はあなたの母親を奪った。私だけが奪われない理由もない。罪は、裁かれなくては」
自分もいつか裁かれるとは言う。してきたことの報いだと、とてもそんなふうには割り切れないオルバと違って、は。
それは、覚悟などではない。諦めだ。何か致命的なことを諦めているくせに殺意ひとつで生き延びている故の、狂った静謐。
まるで死人のような目をした少女は、兄に手を引かれて去っていく。大聖母が死んだことは、当然の報いだというのか。母親を失ったことは、必然の結末だというのか。罪を犯したから、その後の幸せを奪われることは決まっていたというのか。そんなの、そんなことなんて――
そんなことが定められているなんて認められないと、オルバの虚ろな目から涙が落ちる。ビィ、と鳴いた黒いルフに手を差し伸べたのは、眩しい金色の少年だった。
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