帰ってきた可愛い義妹の姿を目にして、紅明は安堵のため息を吐いた。義手となった左腕は、見るだけでも痛々しい。けれど、火傷があれど花のように愛らしい容貌に変わりはなく、その左右色の異なる瞳に浮かぶ色も、峻烈さの影に優しさと穏やかさ、そして僅かに臆病さを宿した、いつもののものだった。遠い異国に行って、迷宮に挑み、組織に相対した。それでも、は変わっていない。が胸の内に宿す不穏の種は、花開いてしまえばその首ごと刈り取られてしまう。紅明がいくら希えども、が煌に仇なすと判断されてしまえばその命は存続を許されないのだ。願わくば異国で復讐心をも棄ててきてくれれば、と思わなかったわけでもないが、それも贅沢というものだろう。が奪われたものは、あまりにも大きすぎるのだ――紅明たちにとっても。
だから、変わらずに帰ってきてくれただけで、良かった。そう、思ったのに。
敬されるべき紅炎ではなく、紅炎に不敬ともいえる態度をとる白龍に傅く。あまりにも自然に、は白龍に跪いた。次期皇帝である紅炎を睨み付け正対する、白龍に。
周囲は、白龍の不遜な態度にざわめいていた。けれど一部の者達は、の敬礼の先にある人物に気付いて真っ青になっていた。金属器を使わない戦いでは、魔力による身体能力の補強もあって煌の中でも一、二を争う武人である。煌において武術の腕前は、人望に直結する。それが、前皇帝、前皇太子と同じ顔をした正統な血筋の皇女であれば尚更だ。そのは、白龍に恭順を示している。たかが一人の金属器使いと言えど、それがであるというのが問題だった。人間魔力炉、魔力操作に加えて、今やは異民族をほぼ独力で殲滅するまでに金属器をも使いこなしているのだ。金属器使いの共通の弱点である、魔力切れが彼女にはない。魔力が多いと言われる紅炎ですら、足元にも及ばないとジュダルに断言されている魔力の保有量。これまでの煌の勢力図を塗り替える可能性を持った、未知数の可能性を持った金属器使い。それが今、白龍に対し頭を垂れている。白龍ひとりの不敬であれば、またいつもの反抗期か、と冗談に流すこともできた。けれど一人がそこに付くだけで意味は大きく変わる。おまけに今は皇帝が死んだ直後。今ここで、内戦の火蓋が切られたとしてもおかしくはないのだ。何せには、一人で師団以上の戦闘力を期待できるのだから。
「…………」
「…………」
触れれば切れそうな、鋭い視線を向ける白龍。それを、紅炎は静かに見つめ返す。その場にいた全員が息をすることすら憚るような重い重い沈黙の中で、紅炎がふとに視線を落とした。
「……」
「はい」
「腕は、痛まないのか」
「ご心配には及びません、紅炎義兄上」
「……迷宮を攻略したそうだな、よくやった。これからも、煌に尽くしてくれ」
紅炎の言葉に、は黙って頭を下げる。伏せられた瞳の奥の感情を読み取ることは、できなかった。
から視線を外し、紅炎は白龍を一瞥する。けれど白龍には何も言葉をかけることはなく、紅炎は白龍の横を通り過ぎた。
「…………」
白龍も振り向くこともなければ紅炎を追うこともなく、ただ静かに、眉間に皺を寄せて黙り込んでいる。一触即発の爆弾は、不発に終わった。緊張から開放された臣下の面々が、やがてざわめきを取り戻していく。紅炎が去ってもなお、白龍に傅き続ける。危惧した白瑛が何か言うよりも早く、白龍がその手を取って立ち上がらせてやったのだった。
「行こうか、」
「はい、龍兄様」
静かで穏やかな笑みを浮かべて、は白龍に応える。小さな白い手を握る白龍の表情もまた、先程までのそれとは別人のように穏やかだった。
――閉ざされている。と白龍の世界は、二人で完結してしまっている。一体何があったのか、そう問おうにも、との距離はあまりに開いているように思えて。
変わっていないなど、なんて愚かしい錯覚だったのだろう。の心の中では、とっくに何かが焼け落ちていたのだ。駄目だ、早く、引き戻さなければ。そうしなければを、殺さなければならなくなる。幼い頃から自分を慕ってくれていた、可愛い小さな義妹。今は駄目だ、いつか自分たちが、彼らの仇を取ってみせるから。だから今はどうか、否、紅明が止めなくてはならないのだ。
「……お前はそれでいいのか」
「それがいいんです」
譲る気など欠片もない強情な瞳に、紅炎は溜め息を吐く。この弟は強面の紅炎と比べて物腰が柔らかいと評されるが、実のところ紅炎よりも融通が効かず頑固なところがある。なまじ人より先が見えるため、自分が良いと思ったことを譲らないのだ。もっともその先進的かつブレない精神がなければ、煌の富国強兵を牽引することなど務まらないが。久方ぶりに再会した、義理の弟妹。あの二人が纏う空気を、紅炎は知っている。あれは、生き急ぐ者のそれだ。
「確かに、あれらは危うい。だが、お前がを御せるのか」
「必ず、私の手元に留めます。私はあの子を、失いたくはありません」
紅明の返答を受けて、紅炎は暫し考え込む。を紅明が御せるのであれば、それが一番だ。紅炎とて弟妹は可愛く思っている。それが例え、復讐心を宿して自分たちを敵視する前皇帝の遺児であっても。
「……良いだろう。時期が時期だけに大々的な公表はできないが、明日にでもには話を通しておく」
「ありがとうございます、兄王様」
「情けをかけたわけではない。お前の言うことだから、信頼して任せている。そこを履き違えるな、紅明」
無自覚なのだろう。紅明からは安堵の表情の他に、自己犠牲の覚悟すら読み取れる。愛する義妹と国を天秤にかけなくてはならなくなったとき、この弟は義妹を連れて逝くことを選ぶだろう。
「死ぬことは許さんぞ、紅明。お前の言い出したことだ、責任をもってを繋ぎ止めろ」
「はい、兄上」
との婚約。それが、紅明の要望だった。自身は紅炎たちへの敵愾心も薄く、皇帝の地位への望みもない。今日はっきりと紅炎への敵対心を示した白龍から、という武力を奪う。そして、自身にも復讐は機を待つようにと説得する。してみせる。それができないのなら、娶るという名目での監禁も厭わないと。
紅明の中で煌の分裂を阻止することとが傷付かないこと、そのどちらが大切なのか、紅炎は敢えてそれを訊かなかった。弟の目は、既に狂気の一端を宿していた。愛する少女が家族を奪われた憎しみのあまり、自らの守るべき国を割る。本来のなら、ありえないことだ。あの優しく可憐ながそのような大罪に手を染めたのなら、紅明は首を吊ってでもその事実から目を背けるだろう。或いは、気が触れてしまうか。紅明にとっては小さな神さまなのだ。穢れなく清らかで、聖なるもの。自分たちが生涯忠義を貫き通すはずだった尊い皇子たちの、一番小さな忘れ形見。どうかこの子は戦乱を知ることなく生きられますようにと、かの皇太子が祈っていた末の姫。そのが、白雄たちが一生の安寧を祈った自身が、戦火を呼ぶ災厄となったのなら。その時きっと紅明は正気でいられない。彼の信仰は、彼自身を滅ぼしかねない。聡明で責任感の強い紅明が、狂いかねないほどにに心を傾けているのはきっと、幼い頃からの負い目なのだろう。
痛いと、苦しいと、白雄たちの名前を呼んで魘される半死半生の。自分たちが城を離れていなければ。もしもの話など詮無いことだが、紅炎とて何度そう思ったか。白雪のような幼子の柔肌に刻まれた、惨い火傷の痕。目を覚ました後も心に重いものを抱え、それでも独りで立とうとする従妹の心を開いてやることができず、救えなかった。その結果が、今のなのだ。左腕を失ってもなおどこかへと加速して進んでいくが、いつかその速さで燃え尽きてしまうような気がして。だから紅明はを繋ぎ止めたいのだ。例えそれがに、愛する義妹に、憎まれることだとしても。
「私がきっと、を幸せにします」
或いはそれを、が望まなくとも。それでも幸せにしてみせると、泣きそうな顔で紅明は言うのだった。
170411