二人で一つの生きもののように、と白龍は連れ立って歩く。それは傍目に見れば、親を亡くした獣の仔が互いをよすがとして寄り添っている光景にも似ていた。その姿は、白瑛の目にはあまりにも痛ましく。早くに頼るものをなくしてしまったふたりが、お互いのことを番のように大切にすることで寂しさを忘れようとしているような、そんな危うさ。白龍は、それを自覚している。解っていて、妹の唯一でいるためにその歪みを正してやらないでいる。それどころか、妹の視野を狭め、信頼を自分だけに向けさせ、着実にを囲い込んでいっている。あの優しく臆病なが、白龍のためなら虐殺をも躊躇わない。否、きっとには最早、彼らが人になど見えていなかったに違いない。はとても臆病で、外でが知ったのは人の優しさや絆の尊さだけではなく、人は目的のためには何だってできることへの恐怖でもあるのだ。大切な家族を守るために、他人を人だと認識することをやめた。白龍が、そうさせたのだ。壊さなければ壊されると、にそう、刷り込んだ。白龍がの瞳を覆い隠すためだけに、高原は虐殺の血に染まったのだ。これ以上、を白龍の傍にいさせるのは危険すぎる。白龍の言葉一つで、の刃は誰にでも向けられるのだ。国を割るのが目的だと、世界は一つになどならないと、白瑛にも助力を求めた白龍。煌が戦火に割れた時、血を被るのはなのだ。
「、聞いて、私たちの、小さな可愛い」
ずっとずっと、大切にしまい込んでいたかった、可愛い妹。そのはずが、色んな思惑を含んだ視線がに突き刺さる。母と義兄の対立。不自然な遺言。それを何故か肯定した弟と、白龍に従うままの。愉しげな母の瞳、縋るような紅玉の目、何も読み取らせない紅炎、暗い決意を宿した紅明の視線、全てが、を見ていた。そして、唯一人の瞳に映る白龍は、かつての白雄たちのような峻烈さを宿して笑っていて。
このままでは、は白龍と共に手の届かないどこかへと行ってしまう。それが怖くて、白瑛はの手を引いて白龍から逃げるように城内を駆けた。ポツポツと降りしきる雨の音が、乱れた呼吸の音をかき消す。白龍の姿が見えなくなるまで走った白瑛は、強引に連れて来た妹を、優しくも縋るように抱き締めた。
「どこにも行かないで、。姉さんを置いていかないで、もう、白龍のために、誰かを殺さないで、……! 傷付くのは、あなたなのですよ、」
考える時間が欲しい、そう答えた白瑛に、白龍は失望を露わにした。やはり自分を理解してくれるのはしかいないのだと、その表情は雄弁に語っていて。
白龍は、聡く賢い子だ。白瑛も気付かなかった大火の日の真実に、独りで辿り着いていた。たとえ魔導士として官人や武将に見下されていようと、その能力は皇子として何ら恥じるところはない。ただ漠然と強さを求めていたに、確かな標的とその道筋を与えたのは白龍なのだ。白龍には、王として立つ才覚がある。そして、立場に見合う残酷さと冷徹さも、持ち合わせていた。優しいけれど、情に厚かったけれど、それでも時折国を率いる者特有の色の無い瞳を見せた白雄。その瞳を確実に受け継いでいる白龍は、彼の目的――煌の奪還と母への復讐、それを阻むのであれば白瑛とて切り捨てるだろう。白龍は、の力を使うことを恥じない。自らが魔導士として在ることを、疎んだりしない。金属器使いとしてのと、魔導士としての自分を、非情なまでに割り切って適材適所に動かせる。妹よりも戦闘力の劣る自分のちっぽけな自尊心と誇りなど、国を取り戻す上では障害にしかならないと投げ棄ててしまえるのだ。その上、自分の為に部族でも国でも焼いてしまえるを、白龍は愛するだろう。返り血に染まり、戦いで傷付いたを、躊躇うことすらなく抱き締めてその手で癒すのだろう。恐ろしいまでに強く美しい妹を愛せるのは自分だけだと、優越感に瞳を歪めて。
「お願い、、私と一緒に、煌を守って……! お兄様たちの遺したこの国を、焼かせないで、」
「……煌とは、龍兄様ではないのですか?」
静かで無垢な問いかけに、涙を流して懇願していた白瑛はバッと顔を上げる。の言葉の意味と、ただただ不思議そうな表情。白龍こそが正統な『煌』であると信じて疑わないに、白瑛の瞳が絶望の色に染まった。
「私は煌を、龍兄様を、守ります。瑛姉様も、同じではないのですか……? お姉様はいったい、何を守るのですか? 何を焼かせまいと、仰るのですか……?」
お兄様たちの遺した煌は、私たちの目の前に在るのに。怒りもなく、失望もなく。純然たる疑問が、何よりも鋭利な刃となって白瑛の心に突き立った。
「私たち、もうどこにも行けないんです、瑛姉様。この国は……かつて描いた夢を歪めて、戦を繰り返すばかりではないですか……。他国を壊し尽くして、一部として取り込むのが、お兄様たちの信じた『煌』なのですか?」
アリババは、もう知ってしまっただろうか。アリババは、自らの故郷についてたくさんのことをに語ってくれた。霧と砂の国。洗いざらしの白。石の家。賑やかな交易の街。貧民街を駆け回る、白い服の子どもたち。今は均一に均されてしまった、郷愁の欠片も残さない変わり果てたバルバッド。恋した人の故郷が自分の国に侵されていく様を、はただ聞き届けただけだった。想い人の帰る場所を守る力すら、には無いのだ。
「瑛姉様、私……好きな人が、できました。遠い海の向こうで、とても素敵な人に、恋をしました。でも……その人の故郷を、何よりも守りたい国を、壊して侵略したのは煌なんです。あの人が私に語ってくれた光景は、もうどこにも無いんです」
「……っ、」
いつか一緒にバルバッドに行こうと、アリババは他愛ない話の中で冗談のようにに言った。口約束ですらない絵空事だろうと、はその言葉を宝物のように胸の中にしまい込んでいたのだ。あの琥珀色の瞳が、ずっと愛していた光景。いつかそれを見れたなら。新しい夢など何一つ描かずに生きてきたが、抱きかけた淡い幻。それを嘲笑うかのように、の祖国はアリババの故郷を破壊し尽くして呑み込んだ。ああ、やっぱり自分は未来など夢見てはいけないのだ。兄に託された復讐と共に燃え尽きること以外、自分に許された道など無いのだと、そうが思うには充分すぎる、哀しみだった。
「瑛姉様……教えてください。煌は本当に、正しいのですか? 煌は本当に、争いのない平和な世界を、作れるのですか?」
その問いは静かなようでいて、の心の全てを懸けた叫びでもあった。いつだって、正しい答えをくれた白瑛。或いは白瑛が煌を信ずるに足る答えをくれたのなら、まだ少しだけ、煌の行く末も信じられるかもしれないと、そんな、僅かな希望を抱いたけれど。
「……ごめんなさい、……!!」
妹の初恋を、踏み砕いて踏み躙って。愛する妹を絶望させたのは、煌の正義だ。どう言い繕うことも、誤魔化すこともできない。その幼さに誠実に相対するためには、どんな欺瞞も意味を為さない。白瑛は、の問いに答えられなかった。決して正しいことばかりではない、それでも平和な未来のためだと、信じている。否とも是とも答えられない、純粋な故に残酷な問いかけ。答えられない白瑛に、の瞳はじわじわと絶望の色に染まっていった。兄を殺した煌を、アリババの故郷を奪った煌を、白瑛は信じている。それでも、その正しさの証左は無いのだ。とても聡明で賢い白瑛が答えられないのなら、煌が正しいと証明できる者など、誰もいない。
「…………、」
ぽつりと、の唇から呟きが零れた。力無く白瑛の腕を掴んだの手が、ずるりと落ちて重力に従いぶらんと下がる。やはり、完全に信じられるものなど、白龍しかないのだ。が信じられる正しさは、今や白龍だけだ。そっと身を退けば、に縋っていた白瑛の腕がずり落ちる。そのまま地面に座り込んでしまった姉の涙に胸が痛んだが、もう姉と一緒にはいられなかった。
「ごめんなさい、瑛姉様」
本当は、泣いている姉を抱き締めたい。雨の当たらないところまで連れて行って、温かな火にあたらせてやりたい。でも、は行かなければ。の唯一の、王の側へ。
「わたし、今のこの国を、もう信じられません」
雨に奪われた体温が、心までも冷やしていくようだった。踵を返したの耳に、白瑛の押し殺した嗚咽が途切れ途切れに届く。大好きな姉が泣いているのは、自分のせいだ。いつも泣いてばかりの自分を優しく抱き締めてくれた姉を置き去りにして、自分はどこへ向かうというのだろう。ずくずくと、胸の奥が膿んだ傷のように痛む。
「……龍兄様」
姉を傷付けた自分を、白龍は許してくれないかもしれない。それでも、行かなくては。もう、白瑛とは道を違えてしまったから。姉の頬を撫でる資格すら、今の自分には無いから。
ふらふらと、幽鬼のような足取りでは歩き出す。誰か姉に傘をさしてあげてほしいと、振り返れないは思ったのだった。
170416