生まれてきた日に、抱き締めてくれた優しい手。その手をずっと、探していた。燃え尽きて灰になり、散った行方を求めてさまよい続けていた。左の腕は失くしてしまった。それでも残った右の腕を、伸ばし続けた。その手を握り返してくれる手が、在ると信じて。

 正気を失ったようにふらふらと雨の中彷徨い歩いていたを、呼び止める声。振り向いた先にいたジュダルは、やけににこやかに笑っている。猫のように隙のない足取りで近付いてきたジュダルは、冷え切ったの頬に手を当てた。
「お前、約束破ったろ。俺が、あんなに言ってやったのに」
「…………」
「まあ、いいけどよ。お前もそろそろ、わかる頃だろうしな」
 半ば茫然自失としているは、暖かい手に無意識に自らの手を重ねる。普段のならありえない行動にジュダルは一瞬硬直したが、すぐにニンマリと口角を吊り上げた。
「なんだよ、やっと俺が欲しくなったのか? そうだよな、お前にはわかるよな! お前のマギは、俺しかいないって」
「……いそう」
「あ?」
「かわいそうです。あなたが」
 王としてのに執着しているジュダルは喜色満面にの顔を覗き込むが、見返してきた深淵の青い闇を目にして白けたように真顔になった。
「……ふーん?」
 求めていた渇望とは異なる、憐憫の色。けれどジュダルは、それこそ可哀想なものを見るような目をに向けた。
「『かわいそう』なのはお前だって、まだわかってねーの?」
「……? お母様にずっと利用されていたのは、」
「お前だよ、。憎んで、恨んで、それでもまだ信じたいんだろ? 白雄たちを殺したのは嘘でしたー! って言って欲しいんだろ? お前がかわいそーじゃなかったら誰が可哀想だって言うんだよ」
 ぱちり、が瞬きをする。乖離する愛憎にあれだけ苦しんでおきながら自覚の無かったに、ジュダルは溜め息を吐いた。
「なんだよ、せっかくあいつ連れてきてやったのに。どうせなら首でも獲れよ?」
「なにを、」
「『お母様』だよ。お前の大好きな」
「ッ!!」
 反射的に槍を構え、ジュダルの指した方向へバッと振り返る。寒気がするほど美しい母が、神官たちを伴って現れた。カッと頭に血が上り、困惑を押しのけて昏い感情が胸を突く。仮にも皇帝である玉艶を前に理性は矛先をどうにか押し留めたが、それを嘲笑うような笑顔で玉艶はに手を伸ばした。
「ああ、、可哀想に。そんなに濡れていては、風邪をひいてしまうわ。さあ、お母様のところにいらっしゃい」
 たおやかな指先が、雨粒の伝うの頬を撫でようとする。一瞬、遠い日の優しい記憶が胸を過ぎって、抉った。心を裂くような痛みに、は勢いよく後ずさって玉艶の指から逃れる。ぎゅっと偃月刀の柄を握り締めたの鋭い視線を真っ向から受けて、玉艶はあでやかに唇を歪めた。
「私の、小さな可愛い。そういう目をすると、白雄にそっくりだわ」
「…………」
「あなたに残酷な運命を押し付けた、白雄お兄様に」
 その言葉を聞いた瞬間、全身の血が沸騰したかのようだった。考えるより先に魔力が全身を駆け回り、の姿を魔神の似姿に変貌させる。溢れ出した魔力の奔流が何人かの神官を吹き飛ばしたが、玉艶はその衝撃すら心地良い風か何かのように受け止めていた。
「――貴様が!!」
 それを、口にするのか。慟哭と共に、玉艶の眼前に躍り出たは武器化魔装を振り下ろす。の帰らぬ日々を奪った玉艶が。白雄に、余地のない選択をさせた裏切りの魔女が。白雄がに運命を押し付けたなどと宣うのか。巻き起こった黒ルフの壁が、の刃を阻む。魔力を噴出して力尽くでその壁を破ろうとするが、防壁魔法を形作ったそれは金属器による斬撃を受けてなおびくともしない。無理矢理に魔力の出力を上げれば、負荷が限界を超えた血管が切れて血を噴き出した。余裕の笑みを浮かべる玉艶は、全身から血を噴き出しながら凄烈な殺意を以てザガンの槍を振り下ろすを悠々と観察する。そしておもむろに手を伸ばすと、の顎をこともなげに掴んで唇を重ねた。
「ッ!!?」
「――もういいわ、
 内臓が、めこりと音を立てたようだった。遅れてやって来た痛みを知覚したときにやっと、腹に衝撃を受けて吹き飛ばされたのだと脳が認識した。城の壁をいくつも突き破り、ようやくひとつの壁に大きな罅を入れつつも止まったときには、全身の激痛で身動きはおろか指一本動かすことすら叶わなかった。呻き声を上げて、それでも立ち上がろうとするの元に、軽やかな足取りの玉艶がやって来る。血と泥、雨に濡れた髪を撫で、慈しみに溢れた仕草で玉艶はの頭を自らの胸元に抱き込んだ。
「可愛い小さな、あなたはずっと、私のものよ」
 名残惜しげに身を離して、玉艶は去っていく。の胸は、悔しさと悲しさで一杯だった。けれど泣くまいと唇を噛み締めて、砕けそうになる心を必死に保とうとする。意識を失わないでいるのがやっとのの耳に、騒がしい足音が届いた。
「あーあーあー、悲惨だなおい」
「し、んかん、どの」
「玉艶が白龍呼びに行かせてたから、もう少しだけ辛抱しろよ」
 ジュダルの言葉に、はギリっと歯を食いしばる。結局自分は――自分たちは、玉艶の気まぐれ、或いは情けによって生かされているに過ぎないのだと痛感した。金属器を得ても、魔装を得ても、その足元にも及ばない。玉艶の言う通り、一生飼い殺しにされるのが運命だとでもいうのか。
「……なあ、もう嫌だろ。母親だの恨みだの、国だの運命だのに振り回されんの」
 珍しく、どこか憔悴したような響きさえその声にあったような気がしたのは、意識が朦朧としているせいだろうか。霞む視界で見上げたジュダルの表情は、よく見えなかった。
「お前の憎むべきものは何だ? 。国か? 母親か? 違うだろ。お前の憎しみに、そんなもんは役不足なんだよ」
「『そんなもの』……?」
「なあ、、誰が悪かった? 何が悪かった? 白雄たちが殺されたのも、この国が玉艶を許してるのも、何が悪い?」
 煌々と輝く紅が、を見下ろしていた。の傷ついた右手をとって、宵闇の色は囁く。
「――運命だよ。『そうあるべき』だってどっかの誰かが勝手に決めた、運命こそがお前の憎むべきものだろ」
 ジュダルの言葉は、降りしきる雨のようにの胸に染み込んでいく。ぞわりと、冷え切った背中を熱が駆け抜けた。運命。大いなる流れ。決められた道筋。――ああ、白雄たちの死は、玉艶の裏切りは、煌の腐敗は。あらかじめ定められていた予定調和だというのか。どんなに足掻こうがもがこうが変わらない、そんなもののために自分たちは命を削ってきたというのか。そんなこと。
「俺と行こうぜ、。お前が運命を憎むなら、俺はお前と同じ道を行ける。お前となら、どこかに行ける気がするんだ」
 ぽつり、ぽつり。雨粒がの頬を打つ。どうしてか、目の前の稚い青年が泣いてるような、そんな気がした。
 
170527
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