目覚めたは、そこが自分の部屋であって自分の部屋でないことに目を瞬いた。
間取りや窓の外の景色を見るに、ここは確かに自分の部屋のはずだった。けれど内装が、あまりに違っていて。
「…………」
 ただ呆然と、部屋を見渡す。元々あまり物を置かない殺風景な部屋だったのが、優しげな印象を与える白を基調とした内装に変わっていた。ふわふわひらひらと、言葉にするならそのような感じである。
「これは……」
「ああ、目が覚めたんですね、。よかった」
 二の句を告げずにいるの元に、現れたのは紅明だった。痛いところは、不調はないかと訊く紅明の勢いに流されるままに、どこも大丈夫だと答える。安堵したように頬を緩めて息を吐いた紅明に、ちくりと胸の奥が痛んだような気がした。
「あまり無茶をしてはいけませんよ、。ああでも、もうその心配は要りませんね。無茶のしようが、ありませんから」
「義兄上、それは、どういう……? それに、この部屋は……」
 暖かな微笑みにどこか不穏なものを感じて、は恐る恐る問う。にこりと優しく微笑んだ紅明はの手を取り、きゅうっと握り締めた。
「私たちの結婚の準備ですよ、。兄上から聞いていませんか? あなたは私の婚約者になったんです。私の一生をかけて、幸せにします。もう何も苦しまなくていいんですよ、
「……え?」
 微笑む紅明の瞳に、揺らいだ炎の色は深緋か。言い渡された内容に、は目を瞠る。幾ら強くなろうとも、憎しみに囚われていようとも、の根本は未熟な少女だ。予想だにしない婚約という衝撃で思わずひとりの少女としての側面が出てしまったの小さな手を、紅明は優しく包み込んだ。
「もう、何も頑張らずともいいんです。この左手も、絶対に治してあげましょう。ただ、幸せになってください。少なくとも父上の喪が明けるまでは結婚はできませんが……も、待ってくれますね?」
「……義兄上、わたし、結婚なんて」
 は結婚などするつもりはない。そんなことより、やるべきことがあるのだ。紅明と結婚してしまえば、は第二皇子の後宮に入れられる。まともに出歩くことはおろか、金属器とて没収されてしまうかもしれない。何より、白龍の傍にいられなくなる。白龍に国を返すことが、できなくなってしまう。
……」
 色良い返事が返ってこなかったことに、紅明は眉を下げて悲しそうな顔をする。幼い頃から慕情と不信感という複雑な気持ちを抱いていた従兄の傷付いた表情に、つきりと胸が痛む。けれどその痛みは、突然ぎゅっと骨が軋むほどに手を強く握られた痛みで塗り替えられた。
「いッ、」
「いけません、。お願いですから、いい子でいてください。死にたくないでしょう、あなたも、白龍も」
 紅炎はを殺せない。けれど紅明は、必要さえあれば紅炎がを殺すと思っている。が死ぬ。愛しい義妹が、自分の目の前からいなくなる。その恐怖が、紅明に狂気じみた強迫観念を植え付けた。どんな手段を使ってでも、を繋がなければ。たとえ憎まれても、恨まれても、二度と笑いかけてもらえなくても。片や信義のために、片や自らの想いのためにという違いはあれど、紅炎と紅明はよく似た兄弟だった。
……あなたは、憎いですか。この国が」
「…………」
「誰にも言いません。処罰もしません。ここでの会話は全て、私の胸のうちに留めておきます。ですからどうか、答えてくれませんか」
「……どうして、憎まずにいられますか。私が……今の煌を恨まずにいられる理由があるなら、どうか教えてください、義兄上」
 きっと紅明も紅炎も、あの大火の真相を知っているのだ。彼らはとっくに、誰が白雄たちを殺したのか知っている。それでも彼らは動かない。彼らならきっと、この国を正しい方向へと導けただろうに、それをしなかった。にはそれが悲しくて、白龍はそれを許されざる罪悪だと断じた。が金属器を得て帰ってきたら、が大火の日の真相を話して助力を求めたなら、きっと助けてくれるのではないだろうかと、そう思ったこともあったけれど。今の紅炎や紅明を見る限り、そんなものは都合の良い希望的観測だったと思い知らされて。姉との訣別や母にいたぶられたことで罅の入っていたの心を、不信と敵意が侵していた。
そんなをじっと見つめて、紅明は悲しげに目を細める。赤くなったの右手を優しく擦りながら、紅明は口を開いた。
「……ええ、。あなたの言う通りです。あなたがこの国を許す理由はない。あなたの恨みも憎しみも、正当なものです。あなたにはこの国を、憎む権利がある……もしかしたら、誰よりも」
「……?」
 恨みや憎しみの感情を持つことは良くないと、諭されるとばかり思っていたは訝しげに目を細めた。そんなの柔らかな髪を撫で、少し傷んでしまっているな、と紅明は痛ましげに眉を顰める。
「あなたはこの国を恨んでいい、憎んでもいいんです、。それでもどうか、復讐だけは思いとどまって欲しいんです」
「……何を、おっしゃるのですか」
「私はあなたに一生を捧げます、。あなたが幸せに生きるために、あらゆる手を尽くします。あなたの心を、憎しみを癒すためなら、何でもしてみせます」
 真摯で、誠実な光を宿す瞳。けれどその奥では、歪んだ信仰が澱みとなって浮き沈みを繰り返していた。
「それでも、復讐によってしかあなたの心が癒されないのならどうか、私を殺してくれませんか。
 きっとそれは、もしかしたら何よりも誠実な言葉だったのかもしれない。ちくりと痛んだ胸に、けれどは気付かないふりをした。驚愕と戸惑いを胸の奥底に押し込めて、努めて冷たい声を出そうとする。心が揺れそうになるのを、目を閉じて振り払った。瞼の裏に、兄の無惨な死に様が浮かぶ。
「……私の願いは、義兄上おひとりの命では贖うことなど叶いません。雄兄様はおっしゃいました、仇を討てと。使命を果たせと。義兄上一人殺したところで、生きるべき人が死に、いてはならない人が存在する事実は変わりはしません」
、」
 はたしては、自分自身をどちらに入れているのか。きっと、生きてはならないのに生きていると、そう思っているに違いなかった。義妹の心は紅明が思っていた以上に摩耗していて、揺らぐ青の水底に虚無の闇を見た紅明は思わずの肩を掴む。小さな右手に短刀を握らせ、紅明の胸へと宛てがわせると、目を瞠ったは今度こそ戸惑いを隠さずに紅明を見上げた。
「紅明義兄上は、殺されたいのですか……?」
「違いますよ。ただ、あなたを……愛しているんです、
 グッと、の手を握る紅明の手に力が入る。短刀の鋒が、布地に食い込んだ。このままが手に力を込めれば、紅明は抵抗もせず殺されるだろう。それはの望む結末だろうか。白龍の望むことだろうか。はゆるゆると首を横に振り、紅明の手を振り払う。からんと音を立てて、小さな鉄の切れ端が床に転がった。今紅明を殺すということは、紅明を殺す代わりに復讐はそこで終わりにするという約束をすることになる。どうせ反故になる約束だろうが、そんなものに縛られるわけにはいかないのだ。殺意すら浮かばなかった。誰よりも賢く聡明なはずの義兄が、何故このように愚かなことを言うのだろうと思った。が望むのは玉艶の命による贖いだ。そこから始まる復讐こそあれど、そこに至る前に終わる復讐などありえない。白雄は、玉艶を殺せと言ったのだ。 紅明の命で、終わらせることなどできようか。愛しているから自分の命で終わりにしてほしい。その言葉を理解するためには、は愛の愚かさを知らなさ過ぎた。
「……私には、わかりません。必要ありません。義兄上の、命も、愛も」
 きっと、もしも。もし何も知ることなく、愚かに生きていられたなら、紅明の愛に喜んで応えられていただろう。無邪気に、蒙昧に、ただ守られるだけの子どもでいられたなら。
「誰も、お兄様たちを救ってくれなかった。救えなかったんです。義兄上も……私も」
 劫火の中、斃れる兄を置いて逃げ出した自分のことを、は一生許さないだろう。例え兄がが生きることを望んでそうしたとはいえ、白蓮がを守って殺され、白雄がを生かすために死んだことは変わりない事実だ。その過去は、永遠にを苛み続ける。自分は兄の命を引き換えに生き残った。生き残ってしまった。それなら自分は、何を犠牲にしてでも託された使命を果たさなければならない。はきっと、既に死んでいるのだ。あの燃え盛る城の中で、無邪気で幼く、守られるだけの子どもは焼け死んだ。という人間は、白雄の言葉を全うするために、死んだ続きを歩んでいるだけだ。
「もう、狂い果てているんです、この国は。在るべき道から外れ、お父様やお兄様たちの願いは、過去に埋もれてしまった。だから私は、共に埋もれるか、壊すかしかないんです」
 迎合できないならば、淘汰するか、されるかだ。夢の続き、在りたかった未来。それが今の煌と重ならない以上、はこの国が正しいなどとは思えない。が紅炎たちの真意を知らないことを差し引いても、に自分たちのしてきたことを否定されたことに紅明は少なからず傷付いて俯く。罵られてもいい、恨まれても仕方の無いことだと割り切っていたつもりでいた。それでもこの綺麗なひとに赦されないのは、堪えるものだと自嘲する。
「……それでも、愛しています、
 再び手を取って、愛を乞う。けれど、がそれに応えることはなかった。
 
170622
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