「あなたの想い人は、どんな人なのですか?」
の包帯を甲斐甲斐しく巻き直しながら、紅明がに問いかけた。びくりと警戒するように後ずさったに、そんなに怯えないでくださいと紅明は苦笑する。
「何故、そんなことをお尋ねになるのですか」
「あなたがどうにも、恋をしているように見えたので。あなたを愛する者としては、どんな相手なのか気になるのは自然なことでしょう」
「…………」
「あなたは気付いていないのでしょうね、。帰ってきたあなたは、前にも増して見違えるほど美しくなったのですよ」
「……お戯れを、義兄上」
傷が増え、片腕を失ったのどこを以て美しいと言うのか。自分のために負った傷だからと白龍はの傷も含めて慈しんでくれたが、紅明にはそんなことを言う理由がないように思われた。
「恋をする者は美しくなるという言葉を知りませんか、。表情も、仕草も……あなたのそれは、恋を知った者のそれです。いったい誰が、可憐だったあなたをそんなに綺麗にしたのですか」
「……言いたくありません」
「それは、何故?」
「義兄上たちは、本来あの人に恨まれるべき存在だからです」
ぷいっとそっぽを向いた自分が、我ながら子供っぽいと自嘲する。が何を思ったところで、あの優しい少年はとっくの昔に恨みを捨てている。にはそれが度し難くて、けれどとても羨ましかった。
「……ああ、バルバッドの」
聡明な従兄は、たったあれだけのの言葉であっさりと答えに辿り着く。それにさして驚くこともなく、は窓の外に視線を向けたまま口を開いた。
「恨まないのだそう、ですよ。私たちのことも、煌のことも。そう決めたのだと、おっしゃっていました」
「それはまた、おかしなことを言いますね。正直あなたはああいう手合いは、苦手かと思っていましたが」
「……そうですね、きっと相容れない。わかり合えなかったから、道を違えてしまいました。それでも、好きなんです。好きだと思って、しまいました」
遠くを見るようなの瞳には、煌の景色ではなく南海の島での輝くような日々が映っているのだろう。きらきらと陽の光を反射するの瞳は、真昼の海や空のようにきらめいて。憧憬と恋慕と、寂寥と憂い。愛しい義妹にこんな顔をさせる異国の王子のことが、ひどく羨ましかった。
「でも、終わったことです。好きです、恋をしています。それでも、何も変わりません。変えても、くださらないのでしょう」
「そうですね。あなたは私の、妃になる。それは変わらない事実です。あなたが誰に、恋焦がれていようとも」
そう、ただの戯れだ。何を語ろうが、は紅明と結婚する。ただ、知りたかっただけだ。は恋のためには結婚を躊躇わない。が拒むのは、ただ白龍のためだ。の想い人を知ったところで、何も変わらない。それでも、の心を奪った眩しさを知りたかった。紅明はきっと一生向けてもらえない瞳を、ただ見てみたかった。それが、他の誰かを思うものだとしても。
「例えばあれに国を返すと言ったら、あなたは私を愛してくれますか」
「それも、お戯れですか?」
随分酷いことをおっしゃるのですね、とは笑う。傷ついた笑みを浮かべたの答えなど、聞く前から解りきったことだった。
「義兄上はおっしゃいます、私を愛していると。こんな酷いことをおっしゃるのが愛なら、私は愛というものが嫌いです。大嫌いです」
左右で色の違う瞳が、紅明を真っ直ぐに見据える。昔はあんなに泣き虫だったが泣かないのが悲しいと、紅明は思った。
「なあ、お前どうすんの?」
夜半にの部屋へとやって来たジュダルは、何の衒いもなく寝台にごろりと横になる。掛布越しに腹を圧迫されて地味に痛かったが、は別段咎め立てもせずにジュダルの三日月のような口元を見ていた。
「このまま、紅明と黙って結婚すんのか? それとも、白龍と一緒に家出すんの?」
「……城を出ます。紅明義兄上も、薄々気付いておいででしょう」
「ああ、なんか見張りすげえもんな」
さすがに皇女の部屋を表立って見張る者こそいないものの、の部屋に通じる通路には要所要所に兵なり女官なりがいる。逃げようとすれば見咎められる。ジュダルが誰に見咎められることもなくこの部屋にいるのは、単に窓から入ってきたからだ。ジュダルの振る舞いの奔放さは、組織に生を縛られた反動だろうかとは愚にもつかないことを思った。
「そのうち隙ができたら逃がしてやるから、今はゆっくり休んどけよ。玉艶にヤられた傷、まだ治りきってないんだろ?」
「……逃がしてくれるのですか?」
「当たり前だろ? 俺の王サマなんだからよ」
どうやらジュダルにとって、は既に彼の王であるらしい。いったい自分の何がジュダルをそこまで惹きつけるのかわからなかったが、の味方をしてくれるという以上もはや理由は何でも良かった。不思議と、ジュダルを疑う気持ちはなかった。それとも、もう誰に裏切られたところで大した痛手ではないと、思ってしまっているのだろうか。
「どうか、なさいましたか」
じっと黙ってを見つめるジュダルに、居心地悪そうには問いかける。真顔のままから目を逸らさないジュダルは、至極真面目な目をして言った。
「いや、キレーになったなって思った」
「えっ!?」
思わず裏返った声を上げて、はジュダルを凝視する。頬を真っ赤に染めてわたわたと狼狽えるその姿は、紅明に似たようなことを言われたとき不信の目を向けた者と同一人物とは思えない。復讐の使命を背負った皇女としての仮面が剥がれて、ひとりの少女としての一面が露わになった瞬間だった。ずい、と顔を近づけて、ジュダルはの赤くなった頬に手を添える。やや強引に押さえつけて、ごく自然な流れのようにジュダルはに唇を重ねた。
「……な、」
あっさりと離れた唇。こぼれそうなほど目を丸く見開いて、は呆然と感触を確かめるように自らの唇に触れる。初めてではない。初めてではないが、これは。混乱を露わにして震えるの手を退けて、もう一度ジュダルはの唇を奪った。
「んっ、」
抗議の声を上げようとしただったが、目の前にあるジュダルの瞳はまるでに縋るようで。思わず力の抜けたの体を、ジュダルは簡単に押し倒した。
「……悪いこと、しちまおうぜ。」
子どものまま、大きくなってしまった青年がそこにはいた。小さい子どものように善悪の区別がつかず、遊ぶように力を振るい、『母』に支配されている。人並みの貞操観念も、倫理観も持っていた。お互い、恋慕の情など持ち合わせていないことは解りきっていた。けれど、拒もうとも思えなかった。体を許せば裏切らないでいてくれるかもしれないという、打算もあった。だがそれ以上に、お互い欠けたところが多すぎた。寂しい、虚しい、悲しい、つまらない。それが埋まるような気がするのは、ただの気のせいだと解っているけれど。
「……こんな体で、いいのですか。神官殿は、物好きですね」
「きれいだって言ってんだろ。あと、名前で呼べよ」
白龍を失望させてしまうかもしれないという、恐怖もあった。馬鹿なことをしているという、自覚もあった。心のどこかで、自暴自棄になっている自分に気付く。
――どうせ、唯一抱いてほしい人になど、抱いてもらえやしないのだ。
寂しい子どもは、ジュダルにそっと手を伸ばす。その手を握り返してもらえたは、幼子のように純粋無垢に微笑んだ。
170912