「う……」
気怠げな声を上げて、は身を起こそうとする。けれど、億劫そうに伸びてきた手に腕を掴まれ、ぼすりと寝台に引き戻された。
「もう少し寝てろよ、……」
「……ですが、もう朝です。もう起きないと、ジュダル殿」
「昨日あれだけよがっといて、今更いい子ぶるなよ……」
寝ぼけた声で悪態をつくジュダルに、は困ったように眉を下げる。まだ日は昇ったばかりだが、もたもたしていてはそのうち紅明が寄越す女官が来てしまう。の意向もあり彼女たちが世話をするのはあくまで着替えの服や食事の手配のみではあったが、それでも噛み痕と体液で大変なことになっている体を何とかしなければいけない。初めてのにジュダルは何ら配慮や気遣いをいうものを向けなかったが、そのことについては何とも思っていなかった。あちこちが痛いし体力も大幅に削られたが、動けないほどではない。ジュダルはそれなりに女性経験があったようで、覚悟していたほど悲惨な情事ではなかった。
裸のまま引っ付いてくるジュダルがまるで猫のようだと思いながらも、素肌の触れ合う温もりをそっと引き剥がす。手早く身なりを整えてジュダルの脱ぎ散らかした服を拾うを、どこかぼんやりとした様子でジュダルは眺めていた。
「白雄にバレたら、殺されるな」
「……そうですね」
結婚の絵空事を夢見させてくれた、優しい長兄の姿を思い出す。今の自分を見たら、白雄はを軽蔑するに違いない。ずきりと心が痛んだが、その痛みすらどこか鈍く響いた。
「……それよりも、俺に殺される心配をしろ。ジュダル」
「ッ!!?」
「げ、白龍かよ」
突如聞こえた地を這うような低い声に、心臓が凍りついたような衝撃を受けては声も出せずに飛び上がった。ジュダルの言葉通り、扉の前で腕を組んで立っていたのはがかつて見たことがないほどに顔を歪めた実兄で。ひゅっと息を呑んだを安心させるように優しく甘く微笑みかけた白龍は、裸のまま寝台からのそのそと這い出たジュダルにつかつかと歩み寄ると、能面のような表情でジュダルの喉を掴んで持ち上げた。
「貴様、俺のに手を出したのか。死は覚悟の上だろうな」
「合意の上だけど? なあ。つーかイテェから手離せよ」
ジュダルの言葉に、白龍の首がぐりんっと回っての方を向く。必死でコクコクと頷いたは、慌てて二人に駆け寄ってジュダルと白龍の間に入る。ジュダルを庇うかのようなの行動に、白龍は愕然と瞳の光を失った。
「……まさか、これと恋仲にあるのか……?」
「オイ、これ呼ばわりはないだろ」
「その、違います……ええと、これは……」
「寂しかったのなら、俺がいただろう!?」
「お前なんかズレてね?」
「あんなにジュダルに怯えていたのに……」
「嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろ? だいたいは俺の王で、俺はのマギだぞ、王がマギを求めるのは当たり前だろ」
「その『求める』は別の意味だろう! いかがわしい言い方をするな!」
「と、とりあえず服を着てください、ジュダル殿!」
言い争う白龍とジュダルを抑えられる気もせず、は泣きたくなりながらジュダルに集めた服を押し付ける。気勢を削がれた白龍は何か言いたげにはしていたものの、さすがにジュダルが裸のままでいるのものためにはまずいと理解しているのかひとまず押し黙った。
「…………」
服を着ているジュダルに背を向け、はそっと青石の首飾りを取り出す。情事のときこれに興味を示したジュダルが、アリババからの贈り物だと知って千切ろうと手をかけたため、慌てて外して遠ざけたのだ。の恋の残滓、砕け散った初恋の痛みの欠片。ジュダルと体を重ねた後朝にこれを着けるのもなんとなく憚られて、は掌の上できらきらと輝く雫型の青色を見つめていた。
「……」
「ッ、」
背後から腕を首に回した白龍の低い声に、はびくりと震える。の肩口に顔を埋めた白龍は、忌々しげに首飾りを見下ろした。
「いっそ捨てたらどうだ。俺が捨てようか」
「……いえ、申し訳ありません、龍兄様」
ぎゅっと、首飾りを持った手を胸元で握り締める。きっと、よく似合うと思って。その言葉と、アリババの優しい笑顔を思い返せば、どうしても手放せなかった。
紅玉が昔にくれた宝石箱を取り出し、そっと仕舞う。装飾品のひとつも持たないを気遣って義姉がくれたそれは、今の今まで空っぽだった。白銀に青の線が入ったそれはまるでアリババがくれた首飾りのために誂えたようにぴったりで、かちりと鍵をかけたそれをは衣装箱の奥に大事に仕舞い込んだ。
「……許してください、龍兄様。どうしても、手放したくはないのです」
滅多にないの懇願に、白龍はそれ以上強く言うのも憚られて黙り込む。気に食わないのは事実とはいえ、アリババが年相応の少女としての情緒をに与えたのもまた事実である。無理に取り上げてに嫌われるのも避けたくて、白龍はから宝石箱の鍵を預かって頷いた。
「いや、すまない。嫉妬のあまり、心無いことを言った」
「申し訳、ありません……」
シンドリアでの日々は、あまりに楽しかった。だから忘れそうになってしまっていた。には恋など許されるはずもなくて、結婚のことも親兄弟に支配される立場で、情のない相手と体を重ねることなどジュダルとのことがなくともいつか起こりえた未来で、きっとそれはが何も知らない皇女として復讐とは無縁に生きていたとしても、同じことだった。
幸せだった。幸せすぎたのだ。だから仕舞い込もう。捨てられはしなくとも、いつか思い出のひとつにできるように。
「、」
白龍の声に顔を上げると、温かい唇がの頬に触れた。優しく触れて離れたぬくもりに、はぼうっと頬を押さえる。
「俺と幸せになろう。自分で自分を傷付けるようなことも、もうしないでくれ」
もっと自分を大切にしてほしいと言う白龍に、は俯く。けれど服を着たジュダルが、面白くなさそうな顔をして会話に割って入った。
「だから合意の上だっての。そんなに言うなら、お前もシたらいいじゃん」
「……そうだな。そうしよう。、今夜は俺を待っていてくれ」
「え……?」
艶やかな笑みを浮かべた兄が、そう言い残してジュダルを引き摺りながら部屋を出て行く。思いもよらぬ言葉に呆気にとられただったが、ばたんと扉の閉まった音にハッと我に返る。白龍の言葉を理解した途端、顔が熱くなって、そして背筋が冷えて。けれど、白龍を拒むという選択肢が自分の中にないことに気が付いてふっと自嘲に口元を歪めた。アリババに恋をしながらも紅明との結婚を表向き受け入れ、ジュダルと体を重ね、実兄からの求めを拒む気もない。あの悍ましい母にも劣らぬ売女だと、自らを笑った。
壊れたように過ちを重ねるは、ひとりの少女でいるためには少し傷付き過ぎた。白雄との約束を果たすために、白龍と同じ願いを叶えるために、いろんなものから目を背けすぎた。本来優しくて臆病なは、他人を傷付けるために心を殺し続けて、それでも気付かないところで傷は積もって。いよいよ心が軋み、壊れ始めてもなおにはその自覚がない。きっとこのまま壊れてしまうとしても、は今更止まることなどできないのだ。白雄に託された使命を、白龍との約束を果たせないのなら、の生きる意味などないから。
なんだかひどく疲れた気がして、は寝台に背を預けて床に座り込む。夢でもいいから幼い日々に逃避したくて、は静かに目を閉じた。
170916