「……本当は、わかっていたんです」
振り向きもせずに、紅明はぽつりぽつりと語り出した。手を引かれて歩くは、戸惑いながらも紅明の言葉に耳を傾ける。
「あなたが、本気で私に恋をしているのだと、知っていました。その上ではぐらかしたことは、あなたに怒られて当然だと思っています」
「そんな……怒ったり、しません。でも、どうして……」
確かに泣くほど悲しかったけれど、を傷付けようという悪意があってのことではないはずだ。繋いだ紅明の手はひやりと冷たく、わずかに震えている。緊張しているのだと、は自分の手を包み込む大きな手を見下ろした。
「……信じてもらえないかもしれませんが、。私は、あなたのことを好いています。あなたが思うより、ずっと。あなたの好意に見て見ぬふりをし、散々あなたに恥ずかしい思いをさせておきながら、それでもあなたのことが好きなんです」
「え、」
それは何よりも待ち望んだ答えであったはずなのに、どうしてか歓喜よりも戸惑いが先に立った。振り向かない紅明の表情は、見えない。
「私は、あなたの恋人になれません。、あなたがどんなに、私を好いてくれていても。私がどんなに、あなたのことを好きでも」
「……どうして、ですか?」
震える声。泣きそうな声に紅明の肩がびくりと揺れたが、それでも紅明は止まらずに歩き続けた。
「怖いんですよ」
「こわい……?」
「ええ、怖いんです。笑ってくれても構いません。、私は……始まる前から終わる時のことを考えてしまう、臆病者なんです」
ぎゅっと、繋いだ手が強く握り直された。いつの間にか紅明の体温は熱いほどに上がっていて、わずかに汗も滲んでいる。紅明の言葉の意味を理解しかねて、は眉を下げた。
「あなたは誰よりも可愛らしいと、そう思います。優しくて、朗らかで、聡明で……そういったものを抜きにしてもただ、愛おしいと……ずっと傍にいたいと、そう思うのはあなただけです」
他ならぬ紅明の口から出る言葉の数々に、の胸はきゅうっと切なさを訴えて締め付けられる。それでも紅明の声音に浮かぶ諦観の色に、は喜び以上の不安を感じて俯いた。
「あなたはきっと、多くの人に愛されるでしょう。いえ、今も多くの人に愛されています。それを考えたとき、怖くなるんです。 ……は、いつまで私の傍にいてくれるのでしょうか、と」
「……!?」
紅明が足を止め、振り返る。驚愕に目を見開いたの両手をそっと握り締めて、紅明はを見下ろした。
「私はものぐさで、覇気もなく、華やかな魅力も、勇ましい行動力もありません。こんな私の傍に、あなたを繋ぎ止めておくにはどうしたらいいでしょうか? ……その為には何だってしてしまいそうな自分が、怖いんです。たとえあなたが、どんなに私を好きでいてくれても。要らぬ疑心から、きっと私はあなたを傷付けます。だから一緒には、なれません。私では、あなたを幸せにできないんです」
「…………」
「こんな私を好きになってくれて、ありがとうございます、……次は、もっとあなたに相応しい人を見つけて、」
「…………し、」
「え?」
「紅明お兄様の、意気地無し!!」
俯いていたがバッと顔を上げて、紅明の手を振り払う。そのままの勢いで、は思い切り紅明の頬をめがけて手を振り抜いた。
「……ッ!?」
バチン、景気のいい音と共に、紅明の頬に軽い痛みが走る。人と諍うことも、ましてや手を上げることも壊滅的に苦手なのその行動は、まさしく天変地異であった。頬を抑えて呆然としている紅明の目の前で、の大きな瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出す。その涙を拭おうとして伸ばした紅明の手は、に触れることを躊躇い、行き場をなくして半端に上げられただけで。胸が痛いほどに綺麗な涙は、幼く白い頬を滑り落ちて襟を濡らした。
「紅明お兄様の、ばかっ、あんぽんたん、すっとこどっこい、おたんこなす……!!」
「……」
知る限りの罵倒を無理矢理にかき集めたような稚拙な罵詈雑言に、紅明は怒れるわけもなくむしろへの憐憫すら湧いてしまう。叩かれた頬など全く痛くもないけれど、紅明に悪態を吐く自身が紅明よりも傷付いて大泣きする姿に、紅明の心はズキズキと痛んだ。
「だいすきです、ただ、大好きなのに……紅明お兄様のばかぁ……」
両手で顔を覆って、は走り出す。その名前を大声で呼んでも、は振り返りもしなかった。追いかけようと勢いよく駆け出した紅明は、ガッと服の裾を掴まれてつんのめる。
「な、……ッ!?」
ぐっと胸ぐらを掴まれて体を反転させられ、視界に映ったのは振りかぶられた掌。バキッと嫌な音すら立てたそれは、ビンタと呼ぶのも生温い掌底だった。頭が吹っ飛ぶ勢いで首が横に振れ、口の中が切れたのか錆の味が広がる。
「……これはの涙と、あなたを叩いて腫れてしまったの掌の分です」
紅明のひょろっとした体を容易に掴み上げているのは、かつて見たことがないほどに冷え切った眼差しの白瑛だった。のビンタなど比ではない激痛と、一部始終を見ていたらしい白瑛に対する驚愕。頭を強く揺らされて、視界にチカチカと星が飛ぶ。
「そしてこれは、可愛い妹が恋した相手が空前絶後のヘタレだったことに失望した、私の分です!!」
ぶん、と空を切る音がする勢いで、白瑛がもう一度腕を振り上げる。二度目の掌底は、先ほどと全く同じところに綺麗に決まったのだった。
170418