「……ずいぶん派手な紅葉狩りをしたものだな」
右の頬には、から受けたビンタのうっすらとした跡。左の頬には、白瑛に受けた掌底の痣。ひどく憔悴した様子で帰ってきた弟の頬を見て、紅炎は何があったのだと首を傾げた。そこに二階から降りてきた紅覇が、紅明の痣を見て特に驚くこともなくテキパキと手当ての準備を始める。濡れタオルを紅明の頬に当てながらも、じとりとした目で紅覇は言った。
「明兄、サイテー」
「……返す言葉もありませんね」
おそらく白瑛から事情を聞いているのだろう。弟の目は、紅明を責めていた。けれどその中に、憐れみの色も浮かんでいて。
「何があったんだ、紅明」
「……実はですね、」
頬の痛みが激しい紅明のために紅覇が代わりに話そうとする素振りを見せたが、紅明はそれを首を振って制止した。眉間に皺を寄せている紅炎に、今日の出来事を語り出す。兄にも殴られるかもしれないな、と紅明は思った。
「………………」
こけしのような表情で、紅炎は紅明の話を聞いていた。聞き終わった後も、のっぺりとした真顔のままでいる。呆れているのか、怒っているのか、それともとうとう見放されたか。従妹に対する紅明の想いを唯一知っていた兄がどんな裁決を下すのかと考えると、ぎゅっと胃が捩れるような不安を覚えた。
「お前は馬鹿か」
「……は、」
「いや、馬鹿だな。にもそう言われたのだろう」
腕を組んで、紅炎は溜息を吐いた。呆気に取られる紅明の頬を見下ろして、紅炎はなんとも言えない顔をする。
「俺からも一発くれてやりたいところだが……もう殴る場所がないな。白瑛とに感謝をしておけ」
呆れと憐憫が、かろうじて声色から読み取れた。紅炎の言葉で、あの優しく臆病なに叩かれたという事実を再度突きつけられ、胸から空気が漏れ出したように紅明は落ち込んで俯いた。そんな紅明に、紅炎は容赦なく追撃をする。
「の気持ちを馬鹿にするにもほどがあるだろう、お前は。そんなことではいくらが好きだと言ったところで信憑性は欠片もない。どうして、の想いを全否定するような真似ができる」
「の気持ちを否定だなんて、私は……」
「しているだろう。要するにお前の主張は、の気持ちが自分から離れるのが怖いから付き合えない、ということだ。臆病な上に愚昧とは、呆れる。最初から『いつか自分から気持ちが離れていくに違いない』と他ならぬお前に決め付けられた、の気持ちを考えろ」
紅炎の言葉に、紅明はぎゅっと拳を握り締めて俯いた。自分がどれだけ酷いことを言ったのか、改めて突き付けられて後悔が生まれる。ひたむきで健気なの想いが、愛おしかった。それでも、を愛しいと想うが故にひとりで勝手に不安を募らせていた。正直、最初のからの告白の際も、ほんの僅かながらに疑心もあったのだ。はまだ恋に恋する少女で、たまたま近くにいた異性に恋愛感情を錯覚しただけではないのかと。あまりにもに対して失礼な、憶測だ。それでも自己評価の低い傾向にある紅明には、可愛い従妹と両想いであるという、都合の良い夢を見ているような僥倖は信じ難かったのだ。
「……今日、がアリババと歩いているのを見たんです。とても、楽しそうでした。二人が並んでいる姿に嫉妬を覚えて……同時に、お似合いだとも思ってしまったんです」
同年代の、明るく華やかで、他人に対して積極的に歩み寄るアリババ。の周囲にはアリババだけではなく、の優しさや可愛らしさにつり合う人間が、たくさんいるのだ。そう、自分でなくとも。
自分はと年も離れていて、自分の世界に引き篭もりがちで、他人への興味は薄く、見た目も野暮ったいと紅覇によく指摘される。そして自分は、アリババのようにも、紅覇や紅炎のようにも、白雄たちのようにもなれはしないのだ。
「……面倒だな、お前は」
はあ、と再び溜め息を吐いた紅炎が、べしっと紅明の額をはたく。叩かないと言ったじゃありませんか、と恨めしげに見上げてくる紅明に、紅炎は問いかけた。
「お前は、と付き合いたいのか、付き合いたくないのか、どっちなんだ」
「……それは、付き合えるものなら付き合いたいですけど、」
「くどい。付き合えるか付き合えないか、付き合ったあとどうなるのかを訊いているわけではない。お前はと恋人になりたいと思うのか、と訊いている」
純粋な、紅明の気持ちはどうなのかと、紅炎は目を逸らすことなく問う。その言葉に、紅明はぐっと息を詰まらせた。そんなの、是と答えるに決まっている。と恋人になって、あの可愛らしい笑顔や恥じらいの表情、たまに見せるしょんぼりとした顔や拗ねたような膨らんだ頬も全て、独占して。あの柔らかく小さな白い手を握って、一緒に歩いて。そんな時間が得られるのなら、どんなにか幸せなことだろうと。
「お前は本気で、自分以外の誰かにの気持ちを譲り渡してもいいと、思うのか」
紅炎の鋭い視線に、紅明はハッと顔を上げた。紅覇はじっと、口を閉じて二人の対話を見守っている。
「例えば俺がに告白をして、受け入れられて、男女の付き合いをして、関係を持ったとしても、お前はその選択を後悔しないのか。仮に俺とが結婚して、子をもうけた時、お前はその生を心から祝福できるのか」
「……酷いことを、言いますね。そんなの、答えはわかりきっているでしょうに」
「ああ、わかりきっていることだ。なのに、何故お前はそうも自分の心に背く? どの道何かを選んで後悔しないことなどありえない。それでもお前は、の気持ちから逃げることを選ぶのか」
「…………」
無言で、紅明は立ち上がる。紅炎も紅覇も、それを止めることはしなかった。
「……私は、馬鹿ですね」
「今更か」
「ええ、今更です。申し訳ありません、兄上。紅覇も、ありがとうございました。今日のの服装は、あなたの手助けもあったのでしょう」
「……別にぃ。僕はただ、を可愛くしたかっただけだし~……アリババとのことは僕たちが余計な世話を焼いただけだから、むしろこっちが謝ることだよ」
ごめんなさい、と頭を下げる紅覇に、そういうことか、と紅明の顔に苦笑が浮かぶ。つまりあれは、何かとと紅明の仲を応援していた紅覇たちによる発破だったのだろう。確かに心臓に悪い思いをさせられたが、結果として自分の間違いに気付けたのだから、彼らやを責める気もなかった。
「いってきます」
「……紅覇、氷を新しく用意しておけ。今度はきっと、白雄殿たちに殴られて帰ってくるだろう」
「はーい。明兄、無事にとは言わないから、生きて帰ってきてね」
兄弟の言葉に、紅明は頬を引き攣らせる。多少気は重くなったが、今も泣いているであろうのことを思えば寧ろ殴られて当然だとも思う。
(ああ、本当に、馬鹿なことをした)
誰よりも幸せにしたい人を泣かせて、いったい自分は何をしたかったのだろう。今更、受け入れてもらえるかはわからない。それでもただ、傷付けたことを謝りたいと、紅明は思ったのだった。
170420