本当のところを言えば。
白雄は、のことをだらしのない姉だなどと思ったことはなかった。まだは幼く、体も弱い。皇女ということで夜遅くまで起きていなければならないこともあり、昼であろうが寝られるときに仮眠をとることはむしろ推奨すべきことであり、取り立てて責めるようなことではないと理解していた。
ただ、寂しかったのだ。初めは。剣の稽古で青龍たちから一本取ったこと、難しい文をすらすらと読んで褒められたこと、嬉しかったことを姉に報告して、あのふわふわとした愛らしい笑顔を向けて欲しかった。褒められたかった。
頭では解っているのだ。姉は姉でいつも努力していて疲れているのだから、昼寝のときくらいそっとしてあげなければならないのだと。姉が起きてからでも、たくさん褒めてもらえると。解ってはいた。ただの我が儘だった。けれど白雄は、姉を支配する歪んだ喜悦を知ってしまった。
 は白雄だけの姉ではなかった。下にはひとつ違いの弟がいた。年の割に異常なほど大人びた白雄とは異なり、年相応に幼い弟だった。無邪気に姉に甘える白蓮が、羨ましいと思っていた。一緒に昼寝をしたいと言い出せる白蓮と、言えない白雄。は優しいから白雄にも声をかけてくれるのに、白雄はどうしてかそれを断ってしまう。それなのに、まるで昼寝の間を白蓮に独占されているような、嫉妬とも羨望ともつかない感情を抱えていたのだった。一人にしないでほしい。ずっと見ていてほしい。一緒にいたい。独り占めしたい。そんな、純粋だったはずの気持ちは、大好きな姉を心身ともに傷付けるという最悪の形で発露してしまった。
「また間違えましたね、ねえさま」
「っ、」
 琴の音を外してしまったの手を押さえて中断させると、の肩が大仰に跳ねる。その様子に征服欲が満たされてゾクゾクと背筋が震えるが、同時に理由のわからない焦燥と苛立ちをも感じた。白雄は物心ついたときからたいへんに賢く、聡い子供であった。そんな彼が自分の感情を処理しきれないということ自体が初めてのことであり、白雄は自分でも理解の及ばない感情を御す術を知らなかった。白雄がそんな感情を抱くのは、愛おしい姉に対してだけだ。ならばきっと姉に満たされることでしか、この感情は昇華できないのだろう。
「今日はひどく気が散っていますね。また折檻が必要ですか?」
「……ゃ、」
 ひくっと、姉の喉が恐怖に震えたのが判った。同じくらいの大きさの手を重ね合わせて、そっと優しくの手を握り締める。少しだけ白雄の手に収まりきらないその手は、まだ白雄が支配しきれない姉の象徴だった。
白雄はあまりに優秀な子どもであり、完璧なまま成長し続け、物事が思うように進まないことがあまりなく、挫折や失敗を経てもそれに対する悔しさや怒りといった感情に折り合いをつけることができた。その完璧さ故に白雄は、ある種の驕傲を自覚のないままに抱いているとも言えるだろう。そんな白雄にとって、姉は唯一思いのままにならないものだった。否、どちらかといえば思いのままにならないのはではなく、に対する自分の心だったのだろう。どんな難問を前にしても答えが見えているかのように淀みなく流れる思考が、を前にすると途端に動揺して滞る。何をどうしたらいいのかわからないなど、白雄にとってはあまりに不自然な現象だったのだ。白雄が望むのは姉の愛らしい笑顔であり、甘やかな褒め言葉であり、柔らかい抱擁である。けれど白雄がに手を伸ばせば伸ばすほど、笑顔は曇り声は翳り、はその身を震わせる。望んだものはこんなものではないという苛立ちと同時に、けれど姉を支配し服従させる歓びが浮かんでしまう。白雄は自らの過ちに気付かない愚鈍ではない。けれど、だからこそ、過ちの甘美な快感は白雄を更に深い暗闇へと誘った。
「おねがい、白雄、」
 ひどいこと、しないで。
懇願するの大きな瞳には既に涙が浮かび、その声は縋るような響きを含んでいた。その姿は痛ましいほどに美しく、腹立たしいほどに魅入られる。折檻と称して白雄が与える痛みに、はすっかり恐怖を刷り込まれてしまっていた。
「ごめんなさい、白雄、ゆるして」
「いけませんよ、ねえさま」
 ぷるぷると震えて後退るを捕まえ、白雄はうっそりと子どもらしからぬ昏い笑みを浮かべる。
「ねえさまは、駄目な子ですから。おれがずっと、見ていてさしあげないと」
 姿勢を崩されてべちゃりと倒れてしまったをしっかりと押さえつけ、腕を振りかぶる。最早抵抗する気力さえ削り取られてしまっているは、ぎゅっと両手で自らの頭を抱え込んだ。
「……ッ!!」
 べちん、ばちん、と音を立てて白雄の掌がの尻を打つ。突っ伏して顔の隠れたの目尻から、ぽろりと涙が零れ出た。繰り返し繰り返し姉の臀部を打ち据える白雄の表情は、嗜虐心にぎらぎらと輝いている。はただ、ぎゅうっと頭を抱え込み、唇を強く噛み締めて弟の無体な仕打ちに耐えた。
「ねえさま、ねえさまは駄目な子ですね。勉学もおれにおとり、女性のたしなみもろくにこなせず、ぶじゅつはまるで向いていない。おれだけですよ、ねえさまを見捨てないでいてあげられるのは」
「う、ッ、」
「おれはねえさまのために、ねえさまをぶっているのですよ。おわかりですよね。ねえさまがきちんとした皇女になれるように、おれはねえさまをしつけているのですからね」
 白々しい建前を、刷り込むように白雄はいつも口にした。はその空虚な言い分に気付くこともなければ反論もできない。物心ついたときから白雄という弟は完璧で、がその完全さに疑いを持つことは無かった。何をとってもが白雄に敵うことなどなく、白雄にできなくてにできることといえば魔法を使うことくらいだ。けれどそれも、圧倒的なまでの才能を凌駕するものではない。白雄は正しく、過たない。そう思ってしまったことだけが、の過ちだった。
いくら白雄が完全であろうと、が白雄の詰るように何もできない駄目な皇女かというと、全くそうではないのに。完璧な白雄と比べれば、誰であっても器量は劣る。は白雄と比べるから劣って見えるだけであり、年齢を考えれば十分すぎるほどの才を持ち、努力を重ねていた。何より恐怖の根源である白雄が傍にいるから何かと失敗を重ねるのであって、白雄のいないところでは優秀な結果を挙げられるのだ。けれど白雄は、それらを全て解っていて敢えて、を折檻するためだけにの失敗をあげつらうのだった。
「大丈夫ですよ、ねえさま。おれがいます。ねえさまのおそばにずっと、おれがついていますから」
 痛みを与えながら、同時に優しさに似た甘い束縛をも刷り込む。痛みと恐怖で麻痺した頭に、白雄の言葉は砂が水を吸うように染み込んでいく。の心は、すっかり白雄の与える言葉に捕われてしまっている。とても幼子とは思えない悪辣な手管を用いて、白雄は愛しい姉を支配していくのだった。
 
170807
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