「結婚? 何を仰っているんですか、姉様は」
真顔で首を傾げた白雄に、は思わず怯えるように首を竦めた。その声音には責めたり呆れたりするような色は少しもないのに、はすっかり白雄に怯えるようになってしまっていた。結局自分の思い描いていた関係からは外れ、どこかが歪んでしまった姉姫の様子に、白雄は眉間に皺を寄せる。本当に不機嫌になってしまったような声で、白雄はに問いかけた。
「異性に大した興味も持たない姉様が、いったい誰に何を吹き込まれたのですか」
「吹き、込まれただなんて……そ、そろそろ私も、いい年だからと、お母様やお父様が、縁談を持って来てくださるだけで、」
「……姉様が政略結婚の何たるかを、正しく理解しているようには思えませんが」
の後ろの壁に手をついて、白雄はを見下ろす。どうしてだろう。自分はとうの昔に姉の背を越した。昔は包み込めなかった手だって、戯れに握ってみれば今はもう、すっぽりと包み込めるのに。は臆病で弱気で従順で、それなのにどうして姉は自分のものにならないのだろう。が白雄に逆らわないのは怯えや恐怖からがほとんどだったが、その根底は姉が弟に向ける情なのだろう。あれから白雄はずっと、の全てを自分の管理下に置こうとしていた。は白雄がいなければ何もできないのだと、弱いは白雄に守られなければ生きていけないのだと、何年もかけて刷り込んできた。何もできないのためにと宣いを虐げ、辱め、時には優しく甘やかした。けれどが白雄を恐れながらも拒んだり逃げたりはせず、白雄から受ける痛みや苦しみをも甘受しているのは決して白雄が求めた感情故ではない。ただ、見捨てられないのだ。にとって白雄はいつまでも、共寝したいと言い出せない寂しい弟のままなのだ。
儘ならない。白雄はを支配したのだ。痛みと優しさを与えて、傷付けては抉って治して、そうして姉をじわじわと追い詰めていった。優位に立っているのは自分のはずなのに、力関係では白雄の方が上位にあるのに、姉は白雄を哀れんでいる。憎んですらくれない姉の綺麗な家族愛が、白雄の心を波立たせた。
「姉様には無理でしょう、政略のための婚姻など。情に流されやすく、優しすぎて鈍感で、利用するよりもむしろ利用されるだけの人間です。魔力炉のことがなくとも、国外には到底出せません。国内だとて、こんなにも付け込まれやすい姉様を嫁がせるなど、不安要素しかないでしょうに。俺より先に姉様に子ができても、それもまた面倒の種になるのですよ。お解りなのですか?」
父上も母上も何をお考えなのか、とこれ見よがしに白雄は溜め息を吐いてみせる。握った手に指を這わせて、囁くようにの耳元に口を近付けた。
「姉様はただ、俺の言うことを聞く良い子でいてくだされば良いのです。それが姉様のためなのです。姉様は俺の傍にいてください、それが姉様の幸せなのですから」
「白雄……」
悲しげに、は目を伏せる。そっとを抱き寄せて背中を優しく撫ぜると、その表情が痛みに歪んだ。びくりと震えた矮躯を腕に抱いて、白雄は機嫌良さげに目を細めた。
「姉様は、いい子でしょう?」
その背はまだひどく痛むはずだ。白雄が、昨晩鞭打ったのだから。臣下の男に笑顔を向けた姉をはしたないと詰って、下着同然の姿にして背中を鞭で叩いた。加減はしたが、気の済むまで叩いたのだから痛いはずだろう。何より、手当を許していない。泣きながら許しを乞う姉にもう二度と気安く笑顔を振り撒かないと約束させ、一週間それが徹底されるのを確認するまでは治療を許さないと、そう言い渡した。
白雄の折檻は、年々エスカレートしていく。拘束、目隠し、鞭打ち、最近は性的な揶揄を投げかけるまでにもなっていた。おそらくこのままでは、そう遠くもないうちに自分は姉を犯すだろうと白雄は自覚していた。身動きの取れない姿で恥辱に泣き震え、大きな瞳を潤ませて許しを乞う姉。愛しい人の倒錯的な姿は、青年になった白雄の情欲を煽り立てる。結婚など、誰が許すというのか。は白雄のものだ。白雄にとっては、初めての侵略であり蹂躙であり征服だった。自分の仕掛けた策が首尾よく機能したときにも、名のある武将を下したときにも似た高揚感。けれどその胸の高鳴りは、姉への征服欲の足元にも及ばない。
まっとうな姉弟の道からは外れていると、解っていた。この愛情は歪んでいる、濁っている。正しくはない。相手を幸せにする愛し方ではなく、ただ自分が幸せを得たいがための傲慢で、独善的で一方的で、救いようのない愛情。それでも、は決して自分の望むようには白雄を愛してはくれないのだ。ずっと昔から解っていた。はただ、白雄の「姉」なのだ。一緒に昼寝をしようと笑ってくれた姉の厚意を跳ね除けた子供の気持ちが、今になってようやく理解できる。それが好意ではなく厚意だったからこそ、姉に恋していた白雄はそれを受け入れられなかったのだ。
「愛も知らない、お可哀想な姉様。俺が愛していますと申し上げても、姉様にはおわかりいただけないのでしょうね」
(ああ、これは死ぬな)
意識が遠のいていく。痛みも苦しみも薄らいでいき、裂いた腹の感覚も鈍っていく。燃え盛る炎の熱や音も、厚い膜を隔てたように遠くに感じられた。
(白龍は、生き延びる。いつの日かきっと、この国を救うだろう)
今は弱いが、芯の通った聡い子だ。自分の最期が末弟の心に刻んだ歪みを知ることなく、白雄は目を閉じた。瞼の裏に、誰よりも愛しい姉の姿を思い浮かべる。可憐で綺麗で、脆くて儚い最愛の人。優しすぎるにとって、この先の煌はとても生きづらい場所になるだろう。
(死んでしまうのなら、連れて来ればよかった)
他の者になど、託せるものか。幸せにしてやってくれなどと、言えるものか。遺すくらいならば、連れて逝く。を笑顔にするのも悲しませるのも、全て自分だけの特権だ。そう、思っていたかった。明日が来ないなら、共に灰になりたかった。ねえさま。もう声も出ない喉を、震わせる。最後までまっとうに愛せやしないと、自嘲気味に笑った。
「……、……?」
ふわり、体が軽くなる。鉛か泥のように重かった体が突然楽になり、遠のいていた感覚が戻ってくる。いよいよ死んだのかと思ったが、あっけないほど容易く開いた瞼の向こうに見た光景は、この世の地獄のままで。何が起こったのだと、辺りを見回す。どさりと重い音がして、白雄はそちらを振り返った。
「……!!」
ねえさま。それは声にならなかった。次いで理解する。目の前に倒れた姉が、白雄を癒したのだと。傷を癒し、血を止めたの魔法は、白雄の負った障害や失った体力を戻すまでには至らない。それでも白雄は死に損ないの体で、姉の傍に膝をついた。
(気を、失っている……?)
その体は、ひどい有様だった。爆風をまともに浴びたのか、白雄と同じくらいに無残な火傷を負っていた。流れる絹糸のように美しかった髪はところどころが無残に焼け落ち、そうでなくとも熱で焦げて縮んでしまっている。白く柔らかだった肌は焼け爛れ、青い貴石を思わせた瞳は瞼の奥に閉ざされていた。靴の脱げた小さな足はいくつもの破片が刺さり、血を流している。こんな満身創痍の体で、炎の中を進んできたというのか。臆病で怖がりで、もうどうしようもないほどに白雄を恐れてしまっている姉が。
ほとんど無意識で歩いてきたのだろう。爆発に巻き込まれて、意識を失って。それでも倒れたままではおらず、防壁魔法も治癒魔法もなしに壊れかけた体を引き摺って歩いてきた。弟たちを、助けるために。
「ねえさま、は、ほんとうに、おろか……です、ね」
罅割れた声で、語りかける。小さな体は、ピクリとも動かなかった。白雄を癒して、力尽きたのだろう。自分を苦しめ続けた弟を、は助けたのだ。それは白雄の望んだ情愛からではない。白雄が憾み続けた、綺麗な家族愛から。そんな脆くて純粋な感情で、は今命を落とそうとしている。
白雄に、を助けるだけの力は残されていない。白雄ひとり逃げ延びるだけなら、どうにかできるだろう。きっとそれが姉の望みだ。ここまでやってきた姉の、最期の願いだ。どこまでも美しい、姉の優しさ。は白雄を生かした。ここで姉を見捨てて脱出すれば、白雄は生き残るだろう。
「……っ、」
白雄は、躊躇いなく再び腹を裂いた。意識のない姉の体を自らの血で濡らして、姉を炎から隠すように覆い被さる。呆れたように溜め息を吐いて、白雄は目を閉じた。
「おれは、ねえさまと、しにたかったのに。あなたは、おれを、いかすの、ですね」
最後の最後まで、儘ならなかった。愛してくれたけれど、愛してくれなかった。白雄のために命を投げ出そうとした姉は、ひとり生き残れば白雄を救えなかった罪悪感に苦しむだろう。それもいいかもしれないと、白雄は思った。ほんとうに最後の最後まで、まっとうに愛せやしない。それでも、覚えていてほしい。愛していてほしい。
「あなたはおれを、すくいました、よ、ねえさま」
あなたに見ていてほしかった。それだけだった。迫る炎が、容赦なく白雄の体を焼いていく。ぎゅうっと、姉の体を抱き締める。死は、おそろしく呆気なかった。大いなる流れへ還ろうとするルフを、無理矢理に傍にある暖かいひとへと流し込む。意識のない姉のルフに干渉して、防壁魔法を張った。白雄を灼いた炎から、光る壁がの身を守る。
(姉様、)
――ごめんなさい。
最後まで言えなかった言葉を、意識が擦り切れる直前まで、思い描いていた。
170815