マスルールは深い山の奥、ひとりで暮らしている鬼である。雪に道を閉ざされる真冬であったが、その日は珍しく陽が射したので木の上で日光浴を兼ねて寝ていた。普段やたらと先輩風を吹かせたがる付喪神も今日は人間の町に遊びに行っているし、雪女と天狗も彼について行った。こんなに静かなのは久々だと、マスルールは太い枝の上で器用に寝返りを打った。
「――、」
ふと、マスルールの鋭い聴覚が尋常ならざる音を拾う。あれは雪が滑る音と、木が折れる音、そして、何人もの人間の悲鳴だ。
むくりと、マスルールは身を起こす。人間には極力関わりたくないが、おそらく雪崩にでも遭ったのだろう。雪の下から掘り出すことくらいはしてやるかと、マスルールは音の発信源を目指して駆け出した。
「…………」
どうやら、助けは要らないものであったらしい。マスルールが辿り着いた時にはもう、そこにいたのは息のない人間ばかりであった。足跡が散り散りに続いているのを見ると、どうやら生き残った人間もいるらしい。仲間の遺体を見捨てて、我先にと逃げ出したらしいが。
せめて埋葬だけでもしてやるか、と人間の死体を拾っては積み上げていたマスルールだが、ふと、ある死体が守るように抱きかかえていたものが息をしていることに気がついて目を瞬く。
それは子どもだった。十にも満たない、小さな女の子。長い、青みがかった黒髪は乱れているもののよく手入れがされていて、上等な布地の着物に身を包んでいる。近くに散らばっている幾つもの木屑は、どうやら輿の残骸のようだ。おそらく彼女が輿で運ばれていた貴人なのだろう。マスルールは人間の貴賎になど興味はないが、本来この子どもを守るべき大人たちが皆逃げ出してしまったことに何とも言えない気持ちになった。口を不機嫌そうに引き結び、死体の腕から幼子を取り上げる。
「……う、」
見たところ、怪我などはしていない。雪崩の衝撃で気絶しただけであるらしい。目が覚めれば問題なく帰れるかもしれないが、幼子を独りで冬の山道に放り出すのも気が引ける。自分の上着を一旦脱いで幼子を包み、背中に括りつけたマスルールは、埋葬の終わる頃には目覚めてくれればいいが、と作業の続きに取り掛かった。
「…………」
起きない。雪崩の犠牲者たちを皆埋葬し、木屑やら何やらもできるだけ片付けたマスルールだったが、背中で眠る幼子は相も変わらず夢の中だ。揺り起こしてみようかという気持ちもないではなかったが、果たして気絶している人間の子どもを無理矢理目覚めさせてもいいものか戸惑う気持ちが強い。それに、雪崩からはだいぶ時間が経っている。目が覚めたとしても、腹が減っては動けないだろう。マスルール自身もかなり動いたため空腹を感じている。どの道もうすぐ日暮れである。今日のところはひとまずこの子どもを連れて帰ろうと、マスルールは自分の寝床である掘っ建て小屋へ向けて踵を返したのだった。
「……暖かいな」
ぬくぬくとした体温は、マスルールが今まで知り得なかったものだ。雪は止んでいるが芯から冷える寒さに、人間より丈夫である鬼とはいえどマスルールも辟易としていたところだ。とく、とく、と鳴る心臓の音は穏やかで、
「……?」
そういえば、鼓動が心なしか弱まっているような。慌てて子どもを抱き直し頬に触れてみれば、肌の表面はひんやりと冷え切っている。
しまった、とマスルールは慌てて走り出す。なまじ自分の体が丈夫なものだから忘れていたが、まともな防寒具もなしに半日近く真冬の空気に晒されていては、人間の子どもなど簡単に弱ってしまう。せっかく助かった命を、自分の配慮が足りなかったことで死なせるわけにはいかない。顔色の悪い幼子を抱きかかえて、マスルールは懸命に自分の小屋まで奔った。
170112