ぱち、ぱち、と火の爆ぜる音がする。囲炉裏に新しい薪を放り込んで、マスルールは火の傍に寝かせた幼子を内心ハラハラとしながら見守っていた。
小屋に戻るや否や火を熾し、なけなしの寝具を引っ張り出して幼子を温めた。幸い頬には赤みが戻ったものの、今度は熱が出たようで。顔を真っ赤に染めて、苦しげに荒い呼吸を繰り返している。自分の幼い頃、記憶もおぼろげな遠い昔のことだが、熱を出し倒れてジャーファルに看病された時のことを思い出す。その時の記憶を総動員して、ひとまず額を冷やすべきかと水と手巾を用意した。
他にもジャーファルはいろいろしてくれた気がするが、干肉くらいしかまともな備蓄のないマスルールのできる看病といえば、濡らした布を取り替えてやることと時折水を飲ませてやることくらいだ。それでも懸命にマスルールは幼子の看病をした。一度関わってしまった以上、この小さくて弱い生き物を放ってはおけなかった。
「……おにい、しゃま、」
 熱に魘された幼子は、何度も家族を呼んで小さな手を布団の外に伸ばす。お兄様、お姉様、お母様、お父様。そのどれでもなくてすまないなと独りごちながら、マスルールは伸ばされた手をそっと、握り潰してしまわないようにそっと握り返した。
なんと弱い生き物だろう。なんと脆く頼りない手のひらだろう。こんなに弱々しい生き物があれほど世の中に溢れかえっていることが不思議で、けれど幼子は確かにマスルールの手を握り締めていた。柔らかく、小さな手で。本人にしてみれば精一杯の力で、マスルールにしてみればおそろしく頼りない力で。
「…………」
 このまま、死んでしまったら。ふとマスルールの脳裏にそんな思いが過ぎった。ここには薬もなく、マスルールにはまともに看病をするだけの知識も経験もない。拾っただけの人間の幼子ひとり、たとえ死んだところでマスルールには何の不利益もない。けれど。
なんとなく、死んでしまったら嫌だと、マスルールは焦燥にも似た気持ちを抱いた。

「いやー、びっくりしたー。マスルールもあんな顔するんだねー!」
「そうそう。あんな途方に暮れた顔、ここ数十年で初めて見たわ」
「人間の子どもが熱出してオロオロするとか、お前も可愛いとこあんじゃねーか」
「……寝付いたばかりなんで、騒がないでもらえますか」
 落ち着いた寝息を立て始めた幼子を見下ろして、マスルールは和気藹々と盛り上がる三人から頑なに目を逸らす。天狗のピスティも雪女のヤムライハも、付喪神のシャルルカンも、マスルールと同じ、シンドバッドの治める郷で過ごした間柄だ。頼りにはなるのだが、やたらとマスルールを弟扱いして構ってくるため、時たま面倒くさい。とはいえ、彼らがいたからこそ幼子の看病は何とかなったのだが。
町の土産を持って遊びに来た三人が、熱を出した子どもを前に途方に暮れているマスルールのために薬だの米だの着物だのを持ち寄ってくれて。人間の子どもを拾ったマスルールに驚きはしたものの、子どもの汗の始末をしてくれたり薬を飲ませたり、ヤムライハたちは甲斐甲斐しく幼子を看てくれた。粗末な囲炉裏の鍋では、ピスティの作った粥が柔らかい湯気を立てている。目覚めたら温め直して食べさせてあげようね、とピスティは笑った。
「でも、シンドバッド様のところに連れてった方がいいんじゃねえの? ジャーファルさんもいるし、こいつに任せるよりはずっと安心だろ」
 シンドバッドの領域である屋敷へと幼子を連れて行くことを提案するシャルルカンに、ヤムライハたちも容態が落ち着いている今の内に連れて行ってはどうかと同意を示す。けれど、マスルールは緩やかに首を横に振った。
「この子ども、たぶん七歳になってません。シンさんに会ったら、帰れなくなるかもしれないッス」
 七歳までは神のうち。魂の在り方が不安定な幼い子どもが、あの境界の邸でシンドバッドに遭ってしまったら。きっと、二度と戻れなくなる。マスルールの言葉に、シャルルカンたちは忘れていた、というように目を見開いてああ、と声を漏らす。
「お前、よくそんなこと覚えてたな」
「私も忘れてたわ、ごめんなさい」
 イエ、と首を振り、マスルールは寝付いた女児の布団からはみ出した腕をそっと戻してやる。この子どもは家族に会いたがっている。世話が面倒だと迷い家に連れて行ってしまって、二度と現世に戻れなくなってしまっては可哀想だ。なんとなくだが、シンドバッドやジャーファルはこの子どもを気に入りそうな気がする。だからこそ連れて行ってはならないと、マスルールの本能はそう感じ取っていた。
「早く、目が覚めるといいね」
 ピスティが、柔らかな幼子の頬を撫でて微笑む。とても可愛い顔をしているから目が開いているところを見てみたいと、幼子の顔を覗き込んで笑った。
「……はい」
 その白い瞼の下は、どんな色なのだろう。待ち焦がれるようなその感情は、マスルールが今まであまり感じたことのないもので。この子どもを見ていると、ほとんど知らなかった感情が次々に湧いてくる。しかしそれも嫌ではないと、マスルールは傍目からはわからないほどに薄らとだが、目元に笑みを浮かべたのだった。
 
170114
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