シャルルカンたちが帰り、冬の長い一夜を挟んで朝が訪れた。一晩中火を絶やさず幼子を見守っていたマスルールは、そっと幼子の頬に触れる。まだ熱はあるものの、呼吸も穏やかで表情にも苦しげなところはない。安堵のため息を吐いたマスルールの掌の下で、ぴくりと子どもの頬が動いた。
「!」
ゆっくりと、幼子の瞼が開く。白い瞼の下から現れた深い青の瞳に、マスルールは思わず目を奪われた。
きらきらと輝く、夏の湖面のような美しい藍色。大きな丸い瞳は、まるで貴石のようだった。一部の奇特な妖怪たちがヒトの目玉を抉り出して愛でる気持ちすら理解できてしまいそうなほど、美しい瞳。けれどマスルールにはそのような猟奇的な趣味はない。それはきっと、この美しさは幼子の持つ無垢の、内面の綺麗さによって輝くものだと、無意識のうちに悟っていたからだろう。
「…………」
幾度か緩慢に瞬きを繰り返した少女は、にゅっと布団から手を出すと辺りを確かめるように床をぺちぺちと叩く。木張りの床に手をついてぐっと起き上がると、今度は這い這いをするように辺りを探り出した。
「……お前は、」
「っ、」
まさか、という思いで口を開いたマスルール。びくっと肩を揺らした幼子はマスルールの方を見てはいたが、その瞳は玻璃のようで、マスルールの姿をただ反射しているだけだった。
「目が、見えないのか」
「たすけていただき、まことに、ありがとうございました」
幼子に似つかわしくない礼儀正しさで、少女は深々と頭を下げる。少女の名は、練。練という、大きな武家の末の子であるらしい。齢は六つ。上に兄が三人と、姉が一人。神社へ祈祷に詣でた帰り道で、一週間かかる道の二日目であったとのことではあるが。
「ごめんなさい……おうち、わからないんです……」
「いや、仕方のないことだろう」
盲目の幼子に家までの道を案内しろというのも酷な話だ。けれど、大雑把な方角と名前だけでは、さすがにマスルール一人の力で送り届けてやることも難しい。そこはまあ、何かと人間の村や町に遊びに行っている先輩風三人組に協力してもらうものとして。
「……まだ小さいのに、そう肩肘を張るな」
大きくなれないぞ。そう声をかけて、申し訳なさそうに縮こまっているの頭を撫でてやる。指通りの良い髪が、さらさらと心地良い。シンドバッドの屋敷で触れたことのある絹糸や、ジャーファルが世話を焼いている小奇麗な猫によく似た手触りだった。大きな手に小さな頭がすっぽり収まることに頬を緩めると、撫でられているも気持ちよさそうに目を細める。兄姉に、よく撫でられていたのだろうか。
「あの、マスルールさん」
「何だ?」
「わたし、いっぱいはたらきます。なんでも、します。ですからどうか、おうちに帰るてだすけをして、いただけないでしょうか……?」
「それは構わないが、」
あまりにも純粋な瞳と、柔い手のひら。マスルールが人を喰う類の妖しであったなら、「なんでもします」という言質に喜んでこの子供を一呑みにしてしまっていただろう。純粋な、永遠に穢れを知ることのない瞳。それは愛らしく尊いものだが、出会ったばかりの他人にこうも無防備だと、マスルールですら心配になってくる。ジャーファルが幼い子供にやたらと世話を焼きたがる理由が、少しだけ理解できた気がした。
「もう少し、他人を警戒しろ」
「?」
「……俺が盗賊や野盗だったら、危ない目に遭うだろう」
「マスルールさんは、とうぞくなのですか?」
「違う」
「なら、だいじょうぶです!」
「…………」
この幼子を拾ったのが自分でよかったと、つくづく思うマスルールであった。
「……俺は、人の町のことをよく知らない。知り合いに頼んでお前の家を探すが、その間、俺と一緒に暮らすことになる」
「よ、よろしくお願いします!」
折り目正しく頭を下げるに、マスルールは自分が妖怪であることを告げるべきか否か悩む。無闇に怖がらせたくはないが、隠していて何かの弾みで知ってしまったときのことを考えると、今伝えてしまった方がいい気がする。或いは、この子供であれば受け入れてくれると、思ったのか。
「俺は、鬼という妖怪だ」
「おに、」
「取って食ったりはしない」
そうは言っても信用ならないだろうが、と思いつつ言葉を重ねると、はきょとんと首を傾げた。
「では、マスルールさんはとらのかわを着ているのですか?」
「違う。普通の着物だ」
どこかずれた問いかけに、半ば脱力しつつマスルールは答える。世間一般の子供というのは皆こうなのだろうか。取り乱して恐怖されたりしないだけ良いと思いたいが、この警戒心がなさすぎる子供はどうにも危なっかしい。目を離さずに見守っていなければならないと、マスルールは強く思ったのだった。
1700501