それは、願い。それは、誓い。
それは、たったひとつの。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。
降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
 暗い部屋の中、赤い陣が敷かれている。祈るように目を閉じた少女が、静かに言葉を紡いだ。
「閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する」
 部屋の隅には、顔にそばかすのような痕がある紅い髪の青年。部屋を照らす青い燐光を手に持った羽扇で遮り、複雑そうな顔をして少女を見守っていた。
「――――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
 少女の詠唱に応じて、光が増す。開かれた藍色の目が、青のエーテルを受けてもなお強い決意を孕んで静かに燃えていた。
「誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」
 目も眩むほどの青白い強い光が部屋を満たし、窓の無い部屋を風が吹き荒れる。反射的に頭を庇った腕を下ろした少女は、陣の中心に立つサーヴァントを目にして硬直した。隅にいる青年も、凍り付いたように目の前に喚ばれた存在を凝視している。そして、サーヴァントとして喚ばれた「彼」もまた、自身を喚んだマスターを瞳に映して息を呑んだ。まるで、二度と会えないはずの愛しい人と巡り会えたかのように。運命の出会いを果たしたかのように。その頬は紅潮し、瞳は歓喜に潤んで震えている。待ち侘びた飼い主の元へ帰る犬のように、サーヴァントの少年は少女の元へと僅かな距離をも煩うように駆けた。華奢な少女の手の甲に、マスターの証である赤い印が刻まれているのを確認して、感極まったように少女の足元に跪く。凍り付いたまま動けない少女の手を取り、花のようにも見える幾何学模様の刻まれた手の甲に接吻を落として少年は口を開いた。
「――問うべくもない。あなたが、俺のマスターだ」
 感動に打ち震えながら、少年は少女の小さな白い手をぎゅうっと両手で包み込む。少年とよく似た面差しを歓喜とも驚愕ともつかない表情に歪めて、少女はぽつりと声を落とした。
「龍、兄様……!?」

 サバイバーズギルト、という言葉がある。生き残ってしまった罪悪感。の場合、それは愛するきょうだいの死によって発現した。
とても、仲の良いきょうだいだった。一子相伝を原則とする魔術師の家に生まれ、全員がそれぞれ異なる稀有な才能を持っていたために、白雄以外の弟妹が皆バラバラに養子に出されても、彼らの絆は深かった。五大属性全てに高い適性を持つアベレージ・ワンと謳われる白雄。普遍的な魔術には到底向かないが破壊への一点特化の才能を持ち、世界に数人といない魔法使いへと至った白蓮。召喚術と幻想種まで含む使い魔を御する才能に長け、時計塔へと招聘された白瑛。亜空間を創造し、自由に操れる魔術を開発してしまったために高校生ながら封印指定寸前の魔術師となった白龍。皆、誇りに思う兄姉だった。戸籍上はきょうだいでなくなった後も、ずっと交流は続いていて。それぞれ大なり小なり確執のある家同士だったが、自分たちの努力でその隔たりを無くしていこうと、そう皆で約束を交わしたというのに。
 始まりは、白雄の突然死だった。そして、次は白瑛が。その次は白蓮が。その上白龍まで、立て続けにいなくなってしまった。俄には信じられなかった訃報も、誰一人として否定はしてくれなくて。
嘘だと思った。あの強く優しい兄姉たちがみんな死んでしまったなどと、信じられるわけがなかった。
けれども優しい養父は、泣きじゃくるを抱き締めて言った。彼らは本当に亡くなってしまったのだと。受け入れなければいけないよ、。辛いけれど、悲しいけれど、君は生きている人と共に歩まなければならないよ、の義父であるシンドバットは寂しげに笑ってそっとを抱き締めた。
 は、きょうだいの葬儀へは行けなかった。は実妹といえど他の魔術師の家に養子に出された身であり、秘匿の多い魔術師の家には容易に踏み入るべきではない。ましてや魔術師の遺体にはその家の魔術の秘蹟が隠されている場合もある、後日墓参りに連れて行くから葬儀は遠慮しておこう、そうシンドバッドに諫められた。
誰よりも大切だったきょうだいの喪失を抱え、思い出にそっと触れて彼らとの日々を確かめながら、きょうだいのいない春を終えて。優しい養父と、その助手であるジャーファルに支えられ守られながら、は静かな夏を迎えた。その頃から、愛するきょうだいの喪失は罪悪感となってを苛んで。詳しいことは聞けなかったが、白雄たちは皆変死だったのだそうだ。魔術実験中の事故だとシンドバッドは言っていたが、学校の友人であり、家族以外でが魔術師だと知っている数少ない人間でもあるティトスが、彼らの死は他殺である可能性が高いと教えてくれた。そしてそれは、彼ら個人個人を狙ったものというよりは練の血を引く者を標的にしていたようだと、とても言いにくそうに。
はおそらく、聖堂教会に関わりの深いシンドバッドの庇護を受けていたから殺されなかったのだ。きょうだいの中で一人だけ、生き残ってしまった。たった一人、のうのうとこの街で息をしている。それが悲しくて、シンドバッドやジャーファルの優しさから逃げてしまう自分が嫌いで、どうして自分だけ生きているのだろうと自身を苛む声に苦しんで。そうして痛む心を独りで抱え、きょうだいを悼みながら過ごしていたある朝、の手の甲に令呪が現れた。万能の願望器、聖杯を巡る魔術師の戦い、聖杯戦争への参加権。右手の甲に現れた、花にも似た真っ赤な幾何学模様。それが現れた朝、は慌ててシンドバッドの元へと駆け込んだ。は魔術師ではあるが、魔術師同士の闘争からを遠ざけておきたいというシンドバッドの意向により、聖杯戦争についてはほとんど何も知識を持ち合わせていなかった。聖杯を巡り、七人のマスターと七騎のサーヴァントが争い合う戦争。自分はどうしたらいいのか、どうすべきなのかという答えを求めて縋った優しい義父は、聖杯戦争の監督役である自分に令呪を譲渡してマスター権を放棄することを勧めた。欲望のために謀略と暴力の入り乱れる醜悪な闘争に、かわいい愛娘を関わらせたくはないと。今はただ静かに兄姉を悼む悲しみに身を委ねていいのだと、大きな手での頭を撫でてくれた。
も、最初はシンドバッドの言う通りにしようと思っていた。元々は戦いに向いた性格ではない。信頼する義父の勧めに従い、マスター権を放棄しようと、そう思っていた。
 『――聖杯に、懸ける望みは本当に無いのですか?』
 静かな教会の礼拝堂に、突如現れた紅色の青年。昔の中国のような服装で、手には黒い羽扇。耳元で揺れるハート型の耳飾りが、首を傾げる動きに合わせて揺れた。現代には明らかにそぐわない服装と、シンドバッドたちに神がかっているとまで言われる直感が、彼がサーヴァントだと告げていた。
 『聖杯は、万能の願望器。あなたが喪った大切な人たちを取り戻せると言ったら、あなたはどうしますか』
 青年は、アーチャーだと名乗った。彼のマスターの命令を受けて、が聖杯戦争に参加するのであれば全力で支援するつもりなのだと、そうに告げた。
当然シンドバッドとジャーファルは反対した。他のマスターを支援するマスターなどいるわけがなく騙される可能性が高い、何より危険だと。
けれどはアーチャーを信じた。彼の言っていることは本当だと、不思議と強くそう思えた。可能性があるなら賭けたかった。摂理に反していると解ってはいても、もう一度会えるのなら。その死に際して何もできなかった自分の罪を贖えるのなら、彼らが帰ってきてくれるのなら。もう一度だけでも会えるのなら、どんな醜悪な戦いにだって身を投じてもいいと、そう決めた。
「……愚かな願いだって、わかっているんです。お兄様もお姉様もきっと、私が聖杯戦争に参加する理由を知ったら悲しむだろうなって、そう思うんです。りゅ……ランサーさんも、もし『妹』が自分を蘇らせるために戦争に参加すると言ったら、きっと止めますよね」
「……ええ、きっと止めるでしょう。お前がその手を血で汚す必要なんてない、どうか戦いからは離れて静かに生きてくれ、と」
 ランサーの返答に、は静かに俯く。アーチャーと似た服装をした、平行世界の白龍だという少年。この世界と同様に、彼はの兄だったのだそうだ。そんなランサーにこの戦いを否定されたら、はきっと戦えない。今だって、白龍ではないけれど確かに白龍であるこの英霊を前に、大切な人に再び出逢えたような歓びと、彼は白龍の同位体であり決しての白龍ではないのだという悲しみで、頭が割れそうに痛むほど混乱して苦しいのに。
どうやらアーチャーと白龍は、生前の知り合いらしい。ただ仲はあまり良くないらしく、アーチャーは彼のマスターに報告することがあると言って戻ってしまった。今この場には、とランサーしかいない。ランサーに、白龍はそんなことを望まないと言われてしまったら。その恐怖で俯いたの肩を、ランサーは優しく掴んだ。
「けれど、俺は貴方の剣となり盾となり、あなたに聖杯を捧げます。あなたの願いを、俺は必ず勝ち取ろう」
「ランサーさん……?」
「俺があなたの願いを否定しないのは、あなたが俺の『』とは別人だからじゃない。あなたはだ。俺の大切なだ。たとえ異なる世界の人間だとしても、あなたは俺が守りたいと心から願う人だ。あなたに傷ついて欲しくはない、その想いは変わらない。俺も『俺』も、きっと口では『戦いから離れて幸せに暮らせ』と、そう言うでしょう」
 顔を上げたの前のランサーは、とても優しく柔らかい微笑みを浮かべていて、はぎゅっと祈るように胸の前で握り締めていた拳を解く。ランサーは、白龍は、の愚かしい願いを否定しなかった。
「けれどわかるんです、俺だから。俺はきっと、あなたが戦いに臨んでまで自分の存在を取り戻そうとしてくれたことが、嬉しくてたまらない。あなたにとって大切な存在で在れたことに、きっと歓喜する。それに俺もきっと、『』を喪ったら、どんなことをしてでも取り戻したいと、そう願う。俺はあなたの願いを否定しない。この槍であなたを守り抜き、聖杯まで導いてみせる」
 跪いたランサーが、の手を取り指先に口付けた。の藍色の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。の願いは、白龍に否定されなかった。の願いは、赦された。たとえ彼が『白龍』ではなくても。それは今のにとってたったひとつの救いで。ぽろぽろと落ちる涙が、黒の修道服に染み込んでいく。一枚の宗教画のように美しく泣くを静かに仰ぎ見ていたランサーは、立ち上がりをそっと抱き締める。その口元は、三日月のように吊り上がっていた。
 
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