ばしゃり、倒れ込んだのが自らの体から溢れた鉄錆色の血溜まりであると、そう知覚したのはつかつかと「それ」が歩み寄って来てからだった。顔の見えない襲撃者は、何の色もない視線でアリババを見下ろしている。それは蔑みでも哀れみでもなく、アリババが確実に絶命するのを確認する作業でしかないと痛いほどにわかっていた。
「……、」
こひゅ、と断末魔さえ上げられなかった喉が末期に近い息を漏らす。ぼうっとしたまま家路を歩いていた彼を、突如襲った雷光。ハッと我に帰ったアリババは家の土蔵まで逃げ込み持てる力の全てで応戦したものの、あまりにも格が違いすぎた。
(俺、ここで死ぬのかな)
突然、襲われて。理由もなく、心臓を貫かれて。まるで通り魔のような、けれどそんな安い殺人衝動にはありえない、確たる殺意。不条理な暴力。そんなものから誰かを守りたいと、義父だった人の信念を継ぐべく研鑽を重ねてきたというのに、こうして自らの身さえ守れず死んでいくのか。顔の見えない襲撃者に、一矢報いることさえできないまま。
ぐっと、悔しさから握り締めた拳にすら、碌な力が入らない。どんっと悔し紛れに拳を打ち付けた地面から突然眩い光が立ち上り、瀕死のアリババは霞みゆく視界の中限界まで目を見開いた。
「!!?」
その驚きは襲撃者も同じだったようで、死にかけのアリババの首を刎ね飛ばさんと右腕を振り上げる。動けないアリババに振り下ろされた刃はしかし、彼に届くことはなく大きな影に阻まれた。
「――問おう」
翻る、暗い紅。月明かりの中で、鈍い銀色の刃に彼の金色の瞳が反射していた。
「貴様が、俺のマスターか」
「……え、」
否も応もなく、戸惑うアリババは視線だけで振り向いている大柄な男性に返す答えを考えあぐねる。しかしこぼれ落ちていく自らの命をすくい上げろと訴える本能が、その戸惑いを押し退けてアリババの喉に叫ばせた。
「――そうだ!! 俺が、あんたのマスターだ!」
「……良いだろう」
ぶわっと大きく風が舞い上がり、土蔵の中を照らしていた薄青の光が紅に向かって収束する。白い炎を纏って振り上げられた剣が、襲撃者の武器を弾き飛ばしてその痩躯へと振り下ろされた。
「うわっ!?」
ドカンと大きな音が響き、次いで男性の舌打ちの音がする。地面を割った攻撃のせいでもくもくと上がる砂埃が収まった時にはもう、そこに襲撃者の姿は無かった。
「――アリババ先輩!?」
「っ、!?」
「……?」
突如空から降ってきた声に、アリババが血溜まりから跳ね起きて驚愕の声を上げる。わずかに眉を動かした紅色の男性が、宙に浮かぶ影を視界に捉えて表情を強ばらせた。アリババがそれを疑問に思う間もなく小さな悲鳴が聞こえて、目の前で再び武器がぶつかり合う。火花が飛び散り、鍔競り合う二騎の英霊の表情が暗闇の中照らし出された。
「まさかここで、再びお前に会うとはな……!!」
「……やはりお前はあれに固執しているのか」
「他に執着に値するものが、この世に一つでもあるとでも?」
振り下ろされた槍を、ガチガチと音を立てながら剣が受け止めている。凄絶な笑みを浮かべたランサーを、信じられないものを見るような目でアリババは見ていた。どうして、と力無く呟かれた声はランサーに届かず消える。
「何故お前がここにいる、白龍」
「俺は今、ランサーとしてマスターの願いを成就させるためにここにいる。他に理由がいるのか?」
「……あれに、願いがあるのか」
「なければ俺が戦う理由などない。愛おしい願いだ、またお前を殺してでも聖杯に届かせてみせる」
激しくぶつかり合う、剣と槍。先程の赤いサーヴァントとの戦いの時以上に膨れ上がったランサーの殺意に、の喉はひゅうっと引き攣った音を立てた。
「ランサーさん、退いてください! アリババ先輩の手当が先です!」
「この男がサーヴァントのマスターです。あなたの願いを叶えるために、排除しなければならない敵です!」
「でも……!」
がアリババに駆け寄ろうとしても、ランサーの眷属がそれを許さない。とランサーのやり取りを見て眉間に皺を寄せた紅色が、ランサーに向かって口を開いた。
「お前のマスターは、戦いを望んでいないようだが? マスターの命令に逆らうのか、ランサー」
「なら自害でもしてくれるのか、セイバー。どうせお前に望むことなどないのだろう」
「……何なんだよ、さっきから! ランサーだとかセイバーだとか……お前は白龍なんだろ!?」
ランサーに向かって、胸を押さえながら起き上がったアリババが血を吐く勢いで叫ぶ。死んだはずの友人が、妹をマスターと呼んで、わけのわからない格好をして、自分を助けてくれた存在に刃を向けている。自分の友人である白龍が、目の前にいることへの喜びと戸惑い。泣き出しそうなアリババに、ランサーは冷たい目を向けて言った。
「……俺はあなたの知っている存在ではありませんよ、セイバーのマスター」
アリババの背後から、突然現れた植物たち。それがアリババの胸を貫くより早くセイバーの炎が全てを焼き落としたが、友人だったはずの人間に明確な殺意を向けられたのだと、アリババは理解してしまった。
「……どうしてだよ」
ぽつり、血溜りに透明な粒が落ちる。
「どうしてだよ、白龍!!」
痛いほどの叫びに、しかし白龍が応えることはなかった。
160515