「そんで、お前は誰ぞ」
 信長や与一と散々言い合って肩で息をしながら、豊久は包帯でぐるぐるにされているにも関わらずぐるんと躊躇いの無い動きで部屋の隅の少女を振り返る。18年前に死んだはずの織田信長、果てには源平合戦の那須与一の存在で大概豊久は腹いっぱいだったが、この少女はさらにその上を行く。まず明らかに日の本の者ではない。金砂の色をした柔らかな長い髪がさらさらと流れ、その瞳は春のよく晴れた日のような空の浅葱色をしていた。与一も女人と見紛うほどの美貌と肌の白さを持っているが、この少女の肌は透き通るほどに白く、その面貌は男性にはない柔和な愛らしさをたたえている。顔の作りはここにいる誰よりも、むしろ先ほど豊久を拾って運んできた耳の長い少年たちに似ているだろう。そもそも言葉が通じるのかも怪しいが、話の流れや雰囲気で豊久が誰何を問うていることは察したのか、ふんわりと微笑んで少女は答えた。
 "Jehanne Darc,la Pucelle d'Orléans et la Pucelle"
「?」
「ジャンヌ・ダルク、若しくはオルレアンの乙女、或いはただラ・ピュセル――少女、と呼ばれていたそうですよ」
「結局どれが名前じゃ」

「あ?」

 ぽろぽろと語られた名前と、やはり異国の言葉であったが何故かそれを理解しているらしい与一に驚きつつも問い返すと、また別の名前が出てくる。それに首を傾げると、与一と少女が二人揃って苦笑した。
 『私はおそらく一般的にはジャンヌ・ダルク、或いはオルレアンの少女、として知られています――あなた方の国ではおそらくその名も知られていないでしょうが……ですが私の『親』がくれた名前はなんです』
「つまり対外的にはジャンヌとして周知されているはずだけれど、呼んでほしい名前はということですな」
「なんでお前こんな巻き舌言語理解できとんの?」
「なんとなく『えるふ』の言語に似ているんですよ。というかこのやり取り、がここに来た時にもしたでしょう」
「何故親がくれた名前を最初に名乗らんのだ」
 信長と与一のやりとりを無視して、些か眉間に皺を寄せて豊久は問う。親や一族を殊に大事にしている彼にとって、が最初にそれを名乗らなかったことがひどく不可解で、同時に少し許し難いものを感じた。しかし眉を下げて口を開いた少女と、それを通訳した与一の言葉に、僅かな苛立ちを覚えたことを彼は反省した。
 『私は、王家の庶子なんです。出自のために生まれてすぐ豪農に預けられ、ジャンヌという記号を附されて本当の親に捨てられました。不憫に思った育ての親がという名前をくれたのですが……あくまで家族の間でだけそう呼びあっていたので、そちらを名乗るわけにもいかなくて』
「……お前は姫なんか」
『いいえ、私はあくまで庶子ですし、育ちは農民ですから。読み書きもできません』
「まあ僕たちは姫さんて呼んでるんですけどね」
 苦笑して姫ではないと笑うに、与一が肩を竦める。
「……そんで、お姫はどうやってここへ来た?」
『話せば長くなるのですが……』
 与一や信長には既にしてある説明を、は繰り返す。祖国が王位を巡る争いによって荒れ、異邦人たちによって主要な都市が奪われてしまったこと。その時に神の声を聞き、祖国のために戦えと天使に命ぜられたこと。神託を受けたことを王に申し出て騎士となり、軍を率いてオルレアンを取り戻したこと。首都のパリをも奪回せんと戦い続けたが敵軍に捕まり異端裁判にかけられ、魔女として火刑に処せられる――その死の寸前で、豊久たちと同じく気が付いたら廊下の男の前にいたこと。
(一瞬、女の子を見た気もするのだけれど)
 時が止まったかのような刹那、確かに見たはずの姿はどうやら豊久たちは見ていないらしい。彼らと違って国の繋がりのない自分が不確定要素を出すのはやめておいた方がいいだろうと、はそこで口を閉ざした。
「神の声?」
 訝しげな豊久の声に、は苦笑する。
 『笑ってくださっても構いませんよ。シュヴァリエたちは笑いましたから』
「……笑わん」
「なんだ、笑わねぇのか。俺は盛大に笑ったぞ」
「そういえば信さんは大爆笑してましたね」
「笑えん。おんしは神ん声ば聞いたち言うて『おるれあん』を奪り返したのじゃろ。女子が軍ば率いて都一つ取り返すのは、並大抵のことではなか。俺は笑わん」
『……ありがとうございます、トヨヒサ』
 むしろその腕でよく戦ったものだ、とでも言いたげに豊久はの矮躯を見下ろす。聞けば剣を取って戦うよりも旗持ちや軍師紛いのことをしていたらしいが、いかに窮していたと言えど矜持の高い正規の軍人たちが小娘の命令に従って動くというのはそれだけの理由や裏付けがある。捕まった時に装備は取られてしまったらしく、豊久たちとは異なり武器もなく身一つのだが、彼女にとって困ることではないのだろう。吸い込まれるような空色の瞳、その強い輝きと意思こそが、彼女の武器であったに違いないのだから。
「ん?」
 豊久がに差し出した厳つい掌に、信長が首を傾げる。
「――島津豊久。よろしくお願いしもす」
 を真っ直ぐに見据えて改めて名乗った豊久に、律儀なことだと与一は微笑んだ。もっとも彼らも、この可憐な少女が送った燃え尽きるような生には思わず絶句したものだが。
差し出された大きな手を、真っ白な小さい手で握り返して、は微笑んだ。
 『昔はジャンヌ・ダルク。今はただの。よろしくお願いします、シマヅ・トヨヒサ』
 
151011
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