『主よ、この身を委ねます――』
 そう、確かに自分の生は、あの時終わったはずだったのだ。未練など無かった、後悔などなかった。迫る炎も、嘲笑う異邦人も怖くなどなかった。ようやく、神の御許へ行くことが許される、そう、思ったはずだったのに。
 『生き、てる……』
 陵辱の限りを尽くされた。あらゆる責苦を受けた。果てには磔にされ、火を焚かれ。豊久ほどではないがもまだこちらに来て日が浅い。足にはまだ、呪いのような火傷が燻っていた。心もまだ、世界を渡った旅についていけずにいる。
 『これも、神の御心なのでしょうか……』
 豊久たちを起こさないように身を起こし、静かに祈りを捧げる。目を閉じれば、瞼の裏にちらつく焔。
裁判の宣誓書と偽られて罪状を認める書類にサインさせられたことを思い出し、クスッと笑みがこぼれる。
 『それだけ書ければ充分でしょう』
 農家の娘として育てられ、読み書きもろくにできない自分に字を教えてくれた戦友。どんなに練習しても歪な筆跡で自分の名前を書くのが精一杯なを、そう笑って励ましてくれた。もっと勉強しておけばよかった、友の笑顔を思い返しながらは廃城を照らす月を見上げる。
(ジル……)
 共に轡を並べて戦場を駆けた戦友は、自分の最期に何を思っただろう。祖国に見捨てられ、魔女として火刑に処された自分をまだ、彼は友と呼んでくれるだろうか。ジル・ド・レ、青髭伯爵が犯した罪を知らない少女は一人祈る。
「眠れなかとか」
『!!』
 低い声が響き、はビクッと肩を揺らして声のした方を見る。むくりと起き上がった豊久が、をじっと静かに見据えていた。豊久の瞳に映る、静寂と見紛うほどの静かな死の色。かつてが身を置いた戦場でよく目にした色だ。国や時代が変わっても、人の業は変わらぬものだとは詰めていた息を吐く。
「眠れなかとか」
 豊久が繰り返した言葉の直接的な意味は解らないが、起きている自分を気遣っていることは解るのでは曖昧に微笑む。揺れる金糸に目を細めた豊久が、再び口を開こうとした瞬間。
「っ、」
 石壁にもたれていた与一が、まず目を覚ました。次いで香った戦のにおいに、信長が跳ね起き、と豊久の顔色が変わる。大きく開けた壁の隙間から全員が身を乗り出せば、遠くで燃え盛る炎が目に映る。高々と上がる煙に、の心臓が大きくドクンと鳴った。
「お姫?」
『……主よ、』
 主よ、この身を委ねます――
怖くはなかった。これでようやく神の御許へ逝くことが許されるのだと、そう安堵して目を閉じた。
それでも、煙に巻かれる苦しみは、足元から焔に呑まれていく熱の痛みは、の記憶に色濃く残っていた。
「火だ」
 信長の声が、意味を知らないはずの言葉が、の鼓膜に突き刺さる。
「森の向こうの、『えるふ』の連中の村じゃ」
 ――焼けている。
 村が、人の集落が、燃えている。
野伏か野盗かはわからないが、村が襲われているのだ。誰かが炎に追われている。誰かがあの紅蓮の責苦に苛まれている。脚の火傷が、ずくんと痛んだ。
「姫さん、大丈夫――」
 チリっと、橙色の火花が散る。けれどそれを気取った与一が声をかけると、の瞳が焦点を取り戻すのと同時に熱源は消え失せた。
「あ!! おい!」
 信長の焦る声。ドッと地を蹴って、豊久が飛び出していた。
「俺は突っ走ることしか知らん!!」
 ズラッと刀を抜いて駆け出した豊久の背中を、気付けばは追っていた。背後で焦った与一たちの声がを引き止めるが、の脚は止まらない。あの赤い背中を、追いたかった。旗を振り常に先頭を駆けていた自分が、追いたいと思う背中。相変わらず瞼の裏には焔の色がちらついている。耳鳴りのようにバチバチと火花の爆ぜる音がする。けれどもはその赤を追った。皮膚の爛れた脚は、不思議と痛くはなかった。
 
151012
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