にとって練白龍とは、仇敵の国の皇子であり、恩人の息子であり、優しく穏やかな夫だった。
もっとも、煌が仇敵だと言うには些か語弊がある。の国は小さい国ながら鉱山資源が豊富で、鉄や貴金属の生産で栄えている国だった。近年までは近隣の国と持ちつ持たれつ平穏を保っていたのが、急激に勢力を伸ばした西と東の大国に近隣の国々が次々と占領されていき、とうとう両隣から攻め込まれるまでに至ってしまったのだ。二つの大国に攻め込まれ血と混沌が渦巻く中、国王である父もその妻である母も、兄弟姉妹も皆殺されてしまった。運良く逃げ延びたも西の国に見つかり、あわや殺されるという時に現れたのが、南にあった大国の煌帝国だった。
煌は瞬く間に東西の軍を打ち破り国を占領し、唯一の王位継承者となってしまったを捕虜として洛昌へと連れて行った。その時の総大将であった紅炎は悪いようにはしないと言っていたが、禁城でを迎えた彼の父は、値踏みするような目でを舐めるように見て。柔らかい亜麻色の髪に榛色の大きな瞳、愛らしい容姿のを紅徳はいたく気に入り、を自分の妾にすると言って粘ついた声で笑った。
欲にぎらつく紅徳の視線が怖くて、恐ろしい皇帝の慰み者として飼い殺しにされる未来が怖くて、けれど逆らえば自分も国も何をされるかわからない。泣き出しそうになったにかけられたのは、甘く優しい声だった。
『あら、可愛い子ね』
紅徳の妻である玉艶が、を一目見て気に入ったらしい。白龍もそろそろ身を固めさせたいと思っていたし、同い年だし丁度いいわ、この娘を白龍のお嫁さんに頂戴、と艶やかに笑った玉艶の鶴の一声で、は何十何百といるかわからない紅徳の慰み者とならずに済んだのである。愉しみを一つ無くしてしまった紅徳は残念そうな顔をしていたが、玉艶が色めいた仕草で擦り寄るとすぐに満足そうな表情に変わり、紅徳の影からぱちんと目配せをした玉艶に、玉艶は自分を助けてくれたのだとは深く感謝の念を抱いたのだ。かくしては煌帝国第四皇子練白龍の正妃となり、の祖国は煌に併合された。
亡国の王女などが妻では厭われるのではないかと案じただったが、それは杞憂で。玉艶とよく似た顔立ちの優しい少年は、の境遇を哀れんでいたわってくれた。顔や半身を覆う火傷には最初こそ驚いたものの、それもすぐに気にならなくなって。義母となった玉艶や義姉の白瑛もを可愛がってくれて、自分たちを本当の家族のように思ってほしい、と微笑んでくれた。
白龍は、を抱かなかった。『あの義父の妾にされるという話の後に、男に触られるのも辛いでしょう』とを気遣ってくれて。例えそれが突然できた異邦人の妻を遠ざけたい為の方便だとしても、は本当に嬉しかったのだ。家族を失い一人で連れてこられた異国で、優しくしてくれる人がいて、本当に嬉しかった。同じ寝台でそっと抱き締められて、さらさらと髪を撫でられながら眠りにつく夜は、心の底から安堵できた。白龍のような優しい人と結婚できて、本当に良かったと思った。
は国民に対する人質であり、国民はに対する人質なのだと紅炎たちは言った。の属する王家は未だに国民に広く支持されており、王家を廃して煌の支配を押し付けるよりも、唯一生き残った王家のを取り込んだ方が血を流すことなく国を支配できるのだと。そして全てを失ったの願うものは最早国民の安寧のみであり、が大人しくしている内は決して国民に無理な労働を強いたり、奴隷のように扱ったりしないと言われれば、は軛をかけられたも同然だった。
「――恨みに思ったりはしないんですか?」
色の違う瞳が、を真っ直ぐに見つめて問いかける。優しくて真面目で、真っ直ぐな少年。話す時にじっと相手を見て少しも逸らさないところが、が白龍を好きだと思うところのひとつだった。
「あなたは国を奪われて、国民を質に俺の妃という立場に繋がれています。煌が、紅炎殿が、俺が、憎いとは思わないんですか?」
「えっ、と……」
「ああ、紅炎殿や紅明殿たちに告げ口したりはしません。何を言われても俺の胸にしまっておきます。ですから、どうか殿の本当の気持ちを聞かせてください」
困ったように眉を下げたに、白龍が苦笑した。まだ付き合いはそう長くないが、白龍が言質を取って他人を追い詰めるような人間でないことくらいは判る。は向かい合って座っている白龍の膝に視線を落とすと、ぽつりと呟くように言葉を紡いだ。
「……誰を恨んだらいいのか、わからないんです」
「誰を、ですか?」
「はい……、私の父と兄弟は、東の国に殺されました。母と姉妹は、西の国に殺されて……どちらの国も、煌が滅ぼしました。私は煌に命を救われて、連れて来られて……陛下は、恐ろしかったです……でも、玉艶様が助けてくださって、白龍様は優しくしてくださって……私は、誰を恨んで、何を憎めばいいのか、わからないんです……」
「…………」
仇は既に亡く、を利用して国を占領している煌は恐ろしいが、白龍は優しい。恨みも憎しみも行き場を失ってしまったのだと弱々しく笑うを、少し意外そうな顔をして白龍は見詰めた。
「……でも、父母の無念も、兄弟姉妹の悲しみも、私は忘れません。絶対に、忘れません……」
目の前で殺された家族。を逃がすために犠牲になった従者や侍女たち。自分が一体誰の屍の上に立っているのか、今咲き誇る幸福は誰の血を吸って花開いたのか、決して忘れはしない。恨みを捨ててしまえば、死んでいった彼らを蔑ろにするようで怖かった。ぽつりぽつりと落ちる涙を拭い、泣き笑いを浮かべる。てっきり煌に生かされている以上恨みなど捨てて生きると言うと思っていた白龍は、その答えに目を瞬かせて。そっとを抱き寄せると、慈しみの色を青と灰色の目に浮かべ、初めてその桜色の唇に口付けた。
(可哀想な人だ)
驚いて固まるの亜麻色の髪を、ゆっくりと撫でる。家族も国も失って、敵国の皇子に嫁がされた亡国の姫。力も武器も無く、国民の為に首輪に繋がれて。せめて煌が親兄弟を殺した仇であればは白龍たちを恨めただろうに、煌はの仇を討った側であるのだ。けれどそれを素直に喜ぶこともできない。複雑な想いを抱きながらも、優しくしてくれたからと白龍に微笑みかける。境遇も現状も白龍とほとんど重ならないのに、何故だかとても似ているように思った。
「……殿」
「は、い」
唇を離して見下ろせば、可愛らしいつくりの顔が赤く染まっていた。母の口利きで妻になった少女を、組織の手先かと疑ったこともあったけれど。は恨みの感情すらどうしたらいいのかわからない、色んなものに縛られた可哀想な人だ。きっと玉艶はが持て余している恨みや憎しみの感情に目をつけたのだろう。この細い体、愛らしい容貌には重荷であるそれを、利用しようと。
「あなたは俺の妃です。あなたの喜びも悲しみも、恨みも憎しみも、俺のものでもある」
「……?」
「いつか俺が、あなたの恨むべきものを見つけてあげますから」
煌を真っ二つに割る戦争を起こす。煌という国を壊す。その理由に、この哀しい人の涙を付け加えるのも悪くない。いずれ白龍が立つ時に、隣にいるのがこの人であればいいと願った。
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