「何かあったんですか、殿」
「白龍様……」
「最近元気が無いようですが……あなたが悲しそうにしていると、俺も悲しいです」
このところ落ち込んでいるを心配して、白龍がそっとの額に手を当てる。同じくらいの体温が触れ合ったところから溶けていくような温かさに、は安堵したように目を細めた。気遣わしげな白龍の視線に促されて、躊躇いがちに口を開く。
「……最近、玉艶様や白瑛様からお茶のお誘いが来なくなったんです。私が何か粗相をしてしまったのではないかと思うと……」
少なくとも週に一度は来ていた文が、最近は全く来なくなってしまった。忙しいだけなのかもしれない、そう思っても、嫌われてしまったのではないか、何か不快にさせるようなことをしてしまったのではないか、一度感じた不安はどんどん膨らむ一方で。何かしてしまったのなら謝りに行きたいと思うが、は気軽に城内を出歩けるような立場ではない。向こうから招かれない限り訪ねられるような相手でもなく、は優しい義母と義姉との交流がふつりと絶たれてしまったことに暗い表情で俯いた。
「……母上も姉上も、殿のことを嫌ってなどいませんよ。二人とも殿のことが大好きなんです、きっとまたすぐに嫌というほど文が来ますよ」
白龍が、優しくの肩を叩く。寂しさに翳った榛色の瞳を瞼の裏に隠して、は力無く頷いた。
「申し訳ありません、白龍様……ありがとうございます」
「いえ、殿が不安になる気持ちはわかります。代わりにと言っては何ですが、今日は俺とゆっくり過ごしましょう。殿の小さい頃の話が聞きたいです」
「私の小さい頃の話なんて、白龍様にはきっと退屈ですよ?」
「そんなことありませんよ、殿だって姉上たちから俺の子どもの頃の話を聞いたんでしょう。俺が殿の小さい時の話を知らないのは不公平です」
少し拗ねた様な顔をして、白龍は両手での頬を包み込む。恥ずかしい話や失敗した話もちゃんと隠さず教えてくださいね、と笑う白龍に、は困ったような顔で笑いながら口を開いた。
「白龍、少しいいか」
翌日、鍛錬を終えて帰ろうとしていた白龍は、背後からかかった声に内心舌打ちをしながら振り返る。突き刺さる鋭い眼光に恐れることなく、白龍は真っ直ぐに義兄を見返した。
「何でしょうか、紅炎殿」
「……これはどういうつもりだ」
「どういうつもりかと言われても……書いた以上の意味はありませんが」
紅炎が白龍の目の前に突き出した紙を見ても、白龍は平然と言葉を返す。少し苛立ったような紅炎の眼光が鋭さを増したが、白龍は意にも介さなかった。
「何故、に宛てた文にお前が断りの返書を送ってくる」
「何故と言われても……体調を崩している妻の代わりに文を読んで返事を書くのはおかしいことですか?」
紅炎の手にあるのは、白龍が代筆した返事の手紙だ。の国は順調に煌の一部として作り変えられていき、先日その作業が終わり総督府が設立された。それを伝え今後のことを話し合うために、紅徳と紅炎との三人で一度話し合いの場を設けないか、という紅炎の文に対し、の体調が優れないため当分は無理であると白龍が返事を書いたのだ。
「しらばっくれるな、に届く文は全てお前が受け取っているのだろう。そもそもはこの文のことを知っているのか」
自分の国のことである、まさかに何も知らせずにいるのかと厳しく問い詰める紅炎に、白龍は溜め息を吐いて言い返した。
「……では聞きますが、何故話し合いとやらの場に陛下がいるのですか? 殿の国のことはあなたと紅明殿に一任されているのでは? そもそも、あなたがたは占領した国の今後のことを、今まで一度でもその国の王家の者と話し合ったことなどありましたか? 話し合いというのは、陛下が言い出したことではないのですか、紅炎殿」
「それは、」
「陛下は最初殿を慰み者にするつもりでいましたよね、今はそうでないと言い切れますか? ……最近陛下からも殿に呼び出しの手紙が頻繁に来ているんです、今後のためにも親睦を深めたいなどと書かれていましたが……どういうつもりなのやら」
白瑛や玉艶に招かれて城内を時折出歩いているの姿は、禁城ではちょっとした噂になっていた。第四皇子に嫁いだ亡国の姫、その愛らしい容貌は嫁いだ当初より更に美しく可憐になったと言われている。玉艶に言われてのこととはいえ、白龍にやってしまった姫が惜しくなったと考えても不思議ではない。息子の妃とはいえ、実の子でもない先帝の遺児の妃だ。あの俗物が白龍の妻に手を出すことに躊躇するとは思えない。誘いの文を悉く白龍に阻止されて痺れを切らした紅徳が、紅炎を巻き込みもっともらしい口実でを呼び出そうとしているようにしか思えなかった。
「……確かにその不安もあるが、俺もいる。お前の妻にそのような悍ましい真似はさせん」
「どうでしょうね、紅炎殿は皇帝の不興を買ってまで、義弟の妃を守ろうとしてくれるのですか? 最初に殿が陛下の側妻になるという話が出た時、殿がどういう目に遭うかわかっていても止めようとは思わなかったのでしょう? あなたは国さえ抑えておけるなら、殿がどうなろうといいのでしょう」
冷めた目で吐き捨てるように言う白龍に、紅炎はぐっと文を握り締める。確かに白龍の言う通り、あの時は紅徳の犠牲者が一人増えようとどうでも良かった。けれど、義弟の妻となった人間を見捨てるような人間だと思われていることには腹が立つ。多少紅徳の機嫌を損ねようがを守るつもりでいたから、の今後の為にも話し合いは決して無駄ではないと思い文を出したというのに。
「まあ、紅炎殿にとって殿がどうでもいい存在であるというのは、俺にとっては有難いことですが」
「……どういう意味だ」
「殿は俺の妻ですから。殿のことを気にかけるのは俺だけでいいんです。俺は俺のやり方で殿を守ります、紅炎殿はどうぞ、殿のことはお気になさらず国や戦争のことをお考えになってください」
では、と踵を返す白龍の肩を、紅炎が掴んで引き留める。煩わしげに振り向いた白龍を見据えて、紅炎は問いかけた。
「お前は何故、あれにそこまで執着する」
「……殿は、目の前で家族を殺されたそうですよ。そして今はこの国で無力なまま城の片隅に押し込められて、」
俺と同じですね、そう嗤って紅炎の手を払いのける白龍。同族意識と、自分より更に弱くて不憫なへの哀れみと、それを守らなければならないと思う使命感。先日は白龍がに執着を抱こうがどうでもいいと思っていた。けれど。
危ういと、紅炎は白龍の背中を見送りながら思う。の存在が白龍の中にある何かに火を付けたのだと、その危惧が紅炎の胸の内に残った。
パチパチと、あっという間に燃え落ちる紙の束。玉艶からの文、紅徳からの文、白瑛からの文、全てを焼いて灰にしていく。全てには渡さず白龍が読んで返事を出し、誘いに対しては体調がすぐれないからと断りを入れていた。元々玉艶たちに招かれない限りは城内を出歩けないが部屋に閉じこもっていても、不思議に思う者はいない。白瑛たちは心配して見舞いに来ようとしていたが、それも理由を付けて断った。白瑛はともかく、組織や玉艶にを近付けさせたくないのだ。姉には申し訳ないと思うが、これもを守るためだ。灰になった文を庭にまきながら、白龍はひとり静かに笑っていた。
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