「白龍様、白龍様」
「どうしました、殿?」
 声を弾ませて駆け寄ってくるが、ぴょこぴょこと栗色の毛先を踊らせる。無邪気なの愛らしさに目を細めて妻の手を取った白龍の笑顔は、その唇から紡がれた言葉に一瞬凍り付いた。
「今日、玉艶様が訪ねてきてくださったんです!」
 『最近会えなくて寂しかったわ。何か辛いことや寂しく思うことはない? 私を本当の母親と思って、甘えてくれていいのよ』、そう言って、玉艶は甘やかに笑ったらしい。白龍の妨害をものともせず、自分の留守の間に直接乗り込んできた玉艶に苛立ちが浮かんだ。哀れなに優しくして懐かせて、いったい何にこの可哀想な少女を利用しようとしているのか。腹の底に溜まる憤りを、しかし表に出さないようにせり上がる喉に蓋をした。にこにこと、優しく笑っての話に耳を傾ける。義母と久々に話せて嬉しいと笑うに、玉艶に嫌われていなくてよかったと安堵するに、良かったですねと微笑んだ。
「――でも、殿が母上のことでそんなに嬉しそうにしていると、妬けてしまいます」
「は、白龍様……?」
「ねえ殿、母上とはどんな話をしましたか? 俺の話はしてくれました? 俺に母上のことを話したように頬を赤くして無邪気にはしゃいで、俺のことを母上に話してくれましたか?」
 あくまで優しく笑いながら問いかければ、の白い頬が深い朱に染まっていく。真っ赤になった顔を隠すように持ち上げられた腕をそっと掴んで阻み、殿? と甘えるように問いかけて。顔を逸らしながらもちらりと白龍を見上げたが、消え入りそうな声で言葉を紡いだ。
「……玉艶様に、『貴女は白龍のことが本当に大好きなのね、嬉しいわ』って言われて……私、そんなにはしゃいでますか……?」
 子供のように好きな人のことを報告するなどみっともなかっただろうか、と不安げにするのおでこを、白龍はつんっとつつく。
「まさか、みっともないだなんて思いませんよ。純粋な殿はとても愛らしいです。でも、できればそれは直接俺に聞かせてほしかったな」
「あ、う……」
「今からでも遅くありませんよ? さあ殿、あなたが俺のどんなところを好きでいてくれているのか、どうか俺に教えてください」
 慌てて逃げ出そうとしたの腰をがっちりと腕の中に囲って、真っ赤な顔に自身の顔を近付ける。にこやかな笑顔で追い詰めに来る少し意地悪な夫に、は観念して口を開くのだった。

「駄目じゃない白龍、束縛するならもっと上手にやらなくちゃ。バレたらあの子に嫌われるわよ?」
 廊下ですれ違った玉艶にするりと近寄られて囁かれ、白龍は嫌悪のこもった視線で玉艶をじっと睨み付ける。まあ怖い顔、に見せてあげたいわ、そう言って笑う女はただおぞましかった。
「嘘を吐くならもうちょっと上手に吐きなさい。あんな拙い嘘じゃ私でなくても誤魔化せないわ」
 が体調不良だと偽り、誘いを全て跳ね除けていたことを玉艶は言っているのだろう。確かに、元々と交流の無い者には有効な手段であるが、今回の玉艶のように突発的な訪問があればにまで嘘をついて交流を絶たせていたことが知られてしまう。今回は事態を推察した玉艶が何故か白龍の不利にならないように話を合わせてくれたようだが、次があるなどとは考えない方がいい。
「あの子のこと、可愛がってあげなさいね、白龍」
「………………」
「そうだ、いいことを教えてあげましょうか?」
「結構です、どうせ碌な話では無いのでしょう」
「あら、冷たいのね。でもいいの? あなたの可愛いお妃様のことよ?」
「………………」
 玉艶の背後に控える組織の者たちは、玉艶の嫌がらせじみた戯れに付き合わされて嫌にならないのか、と白龍は眉間に皺を寄せる。それともそんなことすら思えない木偶なのかと内心嗤った白龍の耳元で、玉艶は毒々しい猫なで声で語りかけた。
の家族を殺した東西の国だけど……あの二つの国の発展を、私たちが後押ししていたと言ったら?」
「……!?」
 確かに、金属器使いがいるという話も聞かないのに妙に急成長した国だった。もしその裏に、組織の力があったのだとしたら。
、あなたのことが大好きなのね。昨日部屋に遊びに行った時も、あなたの話をたくさんしてくれたわ。そんなに大好きな夫が実は憎んでいる私が祖国を滅ぼした遠因でもあったと知ったら、あの子はどんな顔をするかしら? 自分を助けてくれた優しい義母が、仇の一人だと知ったら? あの子は自分とあなたのために、憎しみを晴らす力を得ようとするでしょうね」
「……あの人を使って、何をするつもりでいる」
「そうねえ……イスナーンが寄越したおもちゃでも、使ってみようかしら。闇の金属器を与えれば、あの子はどうするでしょうね? 魔力量も低くないし、面白いことをしてくれそうだわ」
「っ、貴様!!」
 闇の金属器とは初めて聞いたが、名前だけで既に碌な予感がしない。激昂した白龍からヒラリと距離を取った玉艶が怖いわあ、と馬鹿にするように微笑んだ。ギリッと握り締めた拳がチリッと痛む。激情を堪えて立てた爪が皮膚を破ったのだと、理解した時にはもう玉艶はひらひらと裾を翻して歩き去っていた。

「白龍様?」
 自習に使う書物を取りに行ったはずの白龍が何も持たず、どこか不穏な空気を醸し出して戻ってきたことには茶を用意していた手を止め、心配そうな表情で白龍に歩み寄る。疲れたような顔をした白龍はの姿を認めると、の肩に頭を埋めるようにぽすっと倒れ込んだ。慌てては白龍の名を呼ぶが、白龍は何も応えない。その代わりにぎゅっと縋るように抱き締められ、は何かあったらしい白龍を安心させるように、ぽすぽすと優しく白龍の背中を叩いた。
「…………」
「…………」
 暖かい沈黙が部屋に満ちる。茶葉は開ききって渋みが出てしまうだろうが、そんなのは些細なことだった。渋い茶はが全部飲めばいい。白龍が辛い時に支えるのが、妻であるの役目だろう。榛色の瞳が柔らかいぬくもりを宿して、白龍の白い着物を見つめていた。
「……殿は、いつもいい匂いがします」
 香も焚いてないのに、と白龍が唐突に言う。の祖国では香を焚く習慣が無く、煌に来てからも香を纏わないだったが、その体はいつも陽だまりのようなあたたかく優しい匂いがした。その匂いを胸いっぱいに吸い込むように、白龍は深く息を吸う。はそんな白龍にどきまぎと落ち着かない鼓動を跳ねさせて、口から心臓が飛び出したりしないだろうか、と馬鹿げた不安に駆られながらおそるおそる口を開いた。
「白龍様も、いつも優しい匂いがします。明るい森の、鮮やかな草木の匂いです」
 抱き寄せられた時、撫でられた時、唇を重ねた時、ふと香るそれはの心を落ち着かせる。顔は見えないけれど声だけでのはにかんだ笑顔が想像できて、白龍は張り詰めていた心が緩んでいくのを感じた。
殿はこんなに優しいのに)
 復讐に巻き込みたくない。けれど、隣にいてほしい。無力でも憎しみや恨みを忘れずにいる姿に少しだけ同族意識を持ってそこから惹かれた。恨むべきものを見つけてあげると言った。でも、玉艶や組織を憎んだらはきっと傷付くだろう。
(俺が、殿の代わりに)
 そう、のためだ。玉艶を討つ理由が増えるだけだ。の知らない内に玉艶を討ってしまおう。そうして全てが終わったら、その時に玉艶のことを教えたらいいのだ。きっとは愕然とする。再び恨むべき相手を無くしたことに失意する。
(それでいい。だってこの人は、恨みを持て余している姿が一番美しい)
 誰を恨めばいいのかわからない。何を憎めばいいのかわからない。そう言って弱々しく笑ったに、白龍は恋をした。自身の抱える負の感情に押し潰されそうになっているが愛おしいのだ。
殿、お茶が飲みたいです」
 顔だけ少し離してと視線を合わせた白龍に、は笑顔で頷く。
「はい、今淹れ直しますから少し待ってくださいね」
「いえ、殿はあれを飲む気なんでしょう。俺も同じ物を飲みます」
 夫婦ですから、と笑う白龍には困ったように眉を下げる。茶菓子を出しますね、とそっと白龍から離れたに、ちゃんと殿の分も持ってきてくださいね、と白龍は声をかけた。は何かにつけて白龍を優先し遠慮する傾向があるのだ。妻としては褒められた態度だが、白龍はと同じ時に同じ物を口にしたい。そうすればきっと白龍との体の組成は近付いていく。の好きなものは好きになりたいし、嫌いなものは嫌いになりたいのだ。白龍はそう、大真面目に思っていた。
「白龍様は座っててくださいね」
 そう言って戻ってきたの手には、三個の菓子が乗った盆。はおそらく白龍とで二個と一個のつもりなのだろう。一個と半分ずつにしよう、と思いながら白龍は微笑んだ。
 
160112
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