「……これは?」
紅炎が差し出した書類に、が首を傾げた。そこにはが別紙の契約に同意するという文言があるのみで、肝心の契約の内容がわからない。迂闊に署名をしては国に何があるかわからない、そう問うに、恋に腑抜けた花畑思考ではなかったかと紅炎は別の書類を差し出した。
「お前が正式に自国の王位継承権を捨て、煌の統治に全権を委ねるという話だ。総督府の最高責任者は練白龍、お前の夫だな」
とはいえあくまで白龍は名前だけの総督であり、実際の統治は煌から派遣された官吏が行う。今までと何も変わらない――に、名ばかりの王位継承権が残されていた時と。
「という最後の姫が嫁いだ煌が、新たに国を治める、その宣言だ。お前と白龍の間に子でもできればそれが次代の総督に就くだろうが……」
「……私は、あの国の人間ではなくなる、ということですね。同時に、あの国も元の形をなくして、煌の一部と化すのだと」
「そういうことだ。理解が早くて助かる」
一部の契約内容――奴隷制の適用や租税の増加などに却下の線を引きながら、は紅炎に尋ねる。
「これに私が同意することで、私の国だった彼らが得る益は、何ですか?」
自分が得る益ではなく、あくまで国民の益だけを気にかけるに、紅炎は内心舌を巻く。このような後継が何事も無く育っていたのなら、かの国はさぞ手強い相手になっていたかもしれない。さして王位継承権も高くなかった姫にさえ、こうして王としての教育は行き届いているのだ。まともにあの国が成長していたなら、また違った未来が。の訂正した内容を訂正しなおせば向けられた凍り付くような笑顔に、紅炎はこれをただ白龍の妻として飾っておくのは勿体ないとさえ感じた。
「あの国は、煌に侵攻されない。同時に、他国の侵略からも高い優先順位で守られる」
「……、」
ピクリと、税率について書面の上で激しい戦いを紅炎と繰り広げていたの指が動いた。自国を焼いた炎と、積み重ねられた屍。ただ一人生き残ったなら、その悲劇が繰り返されない尊さを一番良く理解できる。税率にギリギリのところで妥協をつけて、は署名の欄の上で筆を止めた。
「その言葉は、信ずるに値するものですか」
「ああ、違えはしない。とはいえ、お前やあの国が煌に歯向かわないという条件付きではあるが」
「……わかりました」
が、躊躇うことなく署名をする。故国が消える、そのことよりも、故国の人々が一日でも笑顔で生きられることの方が大事だと。迷うことなくその決断を下した目の前の人間は、例え迷宮に挑まずとも王の器だと、紅炎はそう思ったのだった。
「お前は、白龍と玉艶ならどちらを選ぶ」
「?」
帰る場所を失ったというのに別段狼狽える様子を見せないに、紅炎は思わず尋ねる。がこの国において一番慕っている人間二人が割れたなら、この案外聡明な少女はどうするのか。白龍を追い出してまでと二人きりの話し合いの場を設けたのは、それを確かめるためでもあった。
「白龍様です」
躊躇いなく答えたに、紅炎は目を瞠る。
「……もう少し、迷うかと思ったが」
「いついかなる時でも白龍様を信じ、ついて行くのが私の役目です。いえ……そう、したいんです」
「恩人を敵に回してもか?」
「はい」
「白龍が、間違っていたとしてもか」
「その正誤を判ずるのは私ではありません。白龍様が正しい道を行くのなら私はそれに付き従います。仮に違えたならば、その時は共に違えましょう。そうして、また正しい道に戻る支えになります」
盲目とも違う、眩しいほどの信頼。はきっと、白龍ならば道を間違えてもまた立ち上がることができると、白龍の強さを信じているのだろう。
「健やかなる時も病める時も、白龍様を支えます。導くなど、烏滸がましい真似はできません。ただ、共に。倒れそうになったならば、踏み止まる支えに」
優しい白龍の愛情に、が返す愛情の形。それがひどく尊くも脆いものに思えて、紅炎は溜め息を吐くのだった。
160920