人の世界は好きだ。
賑やかな世界、明るい喧騒。もちろん時には陰惨な空気を振りまくこともあるけれど、それを知っていてもなおは人が好きだった。
ヒトは素晴らしい生き物だ。恐怖に耐える誇り高き姿も、苦難を乗り越え先に進む勇気も、須臾の命を輝かせる意志の強さも、にとっては眩しく気高く尊いもので、愛おしかった。
兄神は人間が嫌いだ。のことを慈しんでくれている彼らは、しかしが人と関わることにあまりいい顔をしない。もしかしたらそれは、の権能のことを気遣ってくれているのかもしれないけれど。
「またこんなところに来ていたのか、
「……眠りの兄様」
「エリシオンに帰るぞ、ここは穢らわしくてかなわん」
「死の兄様も、いらしていたのですか」
 ヒュプノスに腕を引かれ振り返ったは、タナトスの姿を見て目をぱちくりと瞬かせる。殊に人間を嫌っているタナトスが、地上を覗きに来ているを連れ戻しに来ることがいつも不思議だった。
「お前はまったく兄不孝なやつだ。俺がこんなところに足を運ぶのはお前のせいだぞ」
「……エリシオンで待っていればいいものを」
「俺たちの愛しい妹を迎えに来て何が悪い、ヒュプノス」
 お前の人間好きはどうにかならないのか、と鼻を鳴らすタナトスを、ヒュプノスが窘めつつも同意するようにに視線を向ける。金と銀の双眸に見つめられて、は居心地悪そうに肩をすくめた。
「帰るぞ、。こんなところに長居をしてはお前が穢れる」
「……ごめんなさい、ヒュプノス兄様、タナトス兄様」
 ヒュプノスに抱え上げられたは、暖かい小宇宙に身を委ねて決まり悪そうに口を開く。冷たい貴金属のような印象を与える外見の双子神は、しかし確かに慈しみの心を持っているのだ。それを、向ける相手がひどく限られているだけで。そしてそれは、未来永劫人間に向けられることはないのだろう。それがにはとても哀しいことだった。

 タナトスがの名前を呼んだ時にはもう、彼らはエリシオンの美しい花畑に立っていて。
「お前が人間を好きなのは気に食わん。あの虫けら以下の、命と呼ぶのも烏滸がましい存在にお前が心を傾ける価値などない。だがそれもお前の本質であるならばと許容してきたつもりだ」
 銀色の髪が揺れる。真っ白なの髪とは似て非なる色が、楽園の陽光を受けて煌めいた。
「お前の権能を考えれば、お前が人間に近付くのは俺たちにとっては好都合だが……お前の心のためには、距離を取るべきだと解っているのだろう?」
 金色が、兄の言葉を継いで口を開く。しゅんと肩を落としたの髪を、ヒュプノスの作り物めいた美しい指が梳いた。
タナトスもヒュプノスも、をエリスと呼ばない。不和と争いの象徴であるそれを、が厭うているのを知っているからだ。の小宇宙は不和を招き、諍いをばら撒く。普段は兄二人に封じてもらっているそれは、解放されればの意思など関係無く争いを生み出すのだ。それを恐れて人間に決して近付きはしないから、まだタナトスたちはの行動に目を瞑っていてくれる。
人間が争いの果てに滅びようが彼らの知ったことではないし、むしろ聖戦をするまでもなく人間が滅びれば彼らとしては願ったり叶ったりなのだが、それで愛しい妹が悲しむのは本意ではない。人間を滅ぼそうとしているハーデスもにその権能を振るえと言わないのは、側近である双子神がの心情に敏感だからだろう。
 婚姻の宴に、震える手で黄金の林檎を投げ入れた日のことが蘇る。彼女の投げ入れた災厄の種は、あっという間に戦火へと花を咲かせた。人間の愚かしさにクツクツと笑みをこぼす兄の腕の中で、呆然とそれを見ることしかできなかった記憶は今でも色褪せることなくを苛む。
「……でも、好きなんです」
 兄の目を見ることができず俯いてしまったに、ふたつのため息が重なって落ちる。聞き分けの悪い自分に嫌気が差したが、それでもは人間を愛していた。
「哀れな妹だ」
 ヒュプノスが、あどけない丸みを残すの頬に唇を落とす。反対の頬に、タナトスもまた口付けを送った。
「さて、愚妹も帰ってきたことだ」
 俺たちを放っておいたツケは高くつくぞ、そう言って口角を吊り上げたタナトスが、ヒュプノスの腕からの矮躯を奪うように抱き上げた。
 
151015
BACK