――人は増えすぎた。
 そう、雷を手にする主神は言った。
 ――とはいえ、神聖なる我らが直接手を下す価値のある生き物とも思えぬ。
 自らの役割は解っていような、そう問うた偉大なるゼウスに、不和の女神エリスとしてのはこう答える他にはなかった。
 ――はい、大神ゼウス。
 きっとそれは言い訳だ。やりたくなかったのなら、やりたくないといえば良かった。人が好きだと宣いながら、自ら争いの種を蒔いた。祝の宴席に、呪いを放り込んだ。あの時、兄神ふたりはとても美しい顔をして笑っていた。黄金の林檎を抱えて震えるの、背中を優しく押して。とても甘く優しい声で、の耳に囁きかけた。
 ――さあ、後はそれを投げるだけだ、
――かの大神も迂遠なことよ。どうあっても自らの手は汚したくないとみえる。
 死と眠りの双子神は、嗤っていた。彼らの主はあくまで冥界の主人ハーデスであり、その弟神は頭を垂れ傅く相手ではない。けれど、愉しそうだった。夜の女神も呆れるほどに本質と隔てて人を愛するが、その人を争わせるのだ。天空神の命令から、愛する妹神を庇うことなど造作もないことだ。けれど、ふたりはそれをしなかった。可愛い妹の心を奪う人間など、好き勝手に争って滅べばいいのだ。元よりハーデスも彼らも、人のことなど好いてはいないのだから。
 『最も美しい女神へ』
 そう記された林檎は、婚姻の席へと投げ入れられた。そして争う女神を、かの大神は仲裁することなく。託された青年は、美しい伴侶を望み。神の権能で成就した結婚は、恐ろしい戦争へと発展したのだった。

「……いたい…………」
 は、途方に暮れていた。今日もまた、兄の目を盗んで楽園を抜け出し、人里を覗いていたのだ。けれど、犬の吠える声に驚いてしまい、運悪く小さな崖から落ちて。足を挫いただけで済んだのは、むしろ幸運だろう。は女神とはいえ、多少体が壊れにくいだけで身体能力は人間の少女と変わりないのだから。
「……励ましてくれるんですか? ありがとう」
 先ほど吠えてを驚かせた犬は、慌てたようにを追って崖を降りてきて。申し訳ないとでも言いたげにくぅんと鳴いてに擦り寄る。その頭を撫でて、はしゃらしゃらと音を立てる脚や腕の装飾品を見下ろした。鎖や輪が連なった形状の白銀のそれは、ひんやりとした温度のままその役割を果たしている。
これはヒュプノスとタナトスの小宇宙が込められた、の権能を封じる呪具だ。これを身につけている限り、は自らの小宇宙を扱えない。テレポーテーションも自分の力を使ったものではなく、ハーデスから賜った神器を使って行っているのだ。治療のための神器など持っておらず、かといって人里も近いのに呪具を外すわけにもいかない。ひとまずエリシオンに帰ろうとも思ったのだが、ハーデスの神器が見当たらない。落下の弾みでどこかに飛んでしまったのだろう。蔓と葉と花、金色が精緻な立体を象るカフスの形の神器を探して辺りを見回すが、落ち葉が積もっていて発見は容易ではなさそうだ。這ってでも見つけ出さなければ、の脱走に気付いたタナトスたちが迎えに来てしまう。こんな有様のを見ようものなら、ヒュプノスはともかくタナトスの短気が小宇宙諸共爆発して周辺の命を尽く絶ってしまうだろう。笑えない想像に、は両手を地面に置いて這い始めた。心配そうに寄り添う犬に、は微笑みかける。
「ごめんなさい、良かったらあなたも、手伝ってくれませんか?」
「――ならば、俺が手を貸そう」
 突然の声に、はびくりと肩を震わせて振り返る。そこにいたのは、体格の良い茶髪の青年だった。
 
170208
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