冥府の匂いがした。凍えるように冷たく、命を刈り取る鉄と闇の匂い。冥界の双子神を追って旅をしていたシジフォスにとって、見過ごすことのできない匂い。冥闘士が近くにいるのなら、人里が近いこともあり放置するわけにはいかなかった。けれど、森で見つけたのは人間離れした白さを持つ、ただの少女で。
「……あ、」
 冥府の気配は、明らかにその少女から発せられていた。その出で立ちも小宇宙も、只の人ではありえない。怯えたように肩を震わせた少女を、けれど害そうとは思えなかった。
(冥府に連なる女神か……?)
 黄金聖闘士であるシジフォスの並外れた五感は、少女から発せられる冷え冷えとした小宇宙が少女自身のものではないことを的確に見抜いていた。その奥にある少女自身の小宇宙は、か弱く無垢で、けれど雄大。明らかに人を超越した者の小宇宙だった。少女を覆う鋭く冷たく偉大な小宇宙は、少女を守ろうとする何者かのものだ。キトンに身を包む可憐な少女は、どこか彼の仕える女神を彷彿とさせる。それに、少女を守るように寄り添う犬も、少女を恐れたり警戒したりしてはいなかった。例え冥府の気配を色濃く纏う女神といえど、無垢で無抵抗の者を攻撃する理由はない。シジフォスは聖なるものへの敬意を以て、少女へ再び声をかけた。
「探し物は、何だろうか。教えてはもらえないか」
 その足での探し物は無茶だろう。赤く腫れ上がった踝を見下ろしてそう諭す精悍な青年の、圧倒的なまでの存在感に慄いていたはハッと我に返った。雪のように白い頬を赤く染めて、もじもじと青年を見上げる。
「でも、ご迷惑では、」
「困っている者を見捨てて去れと言う方が、俺にとっては酷な話だ」
 正直なところ、たとえ自分が困っていようと人間にはあまり直接な関わりを持ちたくはない。は、人を愛するが故に自分の力にひどく怯えていた。けれど、兄神のことがある以上、ここでグズグズと座り込んでいるわけにいかないのも確かである。意を決したように、は花弁のような唇を開いた。
「とても大切なものを、落としてしまったんです」
 俯いて、神器であるカフスの特徴を伝える。静かにそれを聞いていたシジフォスは、が口を閉ざすとふむ、と頷いた。
「俺が必ず見つける。だから、そこを動かないように」
「え、わ、私も、」
 人にばかり探させるわけにはいかないと腰を浮かしかけたの肩を、そっとシジフォスは押さえた。優美な兄とは違う逞しい腕が触れて、異性との接触に慣れていないは頬を赤らめる。
「貴女の怪我が悪化してもいけない。頼むから、動かないでいてくれ」
「は、はい……」
 実のところ、シジフォスには少女の探し物の見当はついていた。少女の身につけている装飾品と同じ、冷たく昏い小宇宙を放つもの。冥府の気配が、小さいながらもシジフォスの知覚に捉えられていた。シジフォスは迷うことなく藪へと分け入り、茨に引っかかっていたカフスを見つける。精緻な造りのそれは無骨な武人であるシジフォスの目から見ても美しかったが、どこまでも悍ましい死の匂いを放つそれは、冥府の中でも高位の神のものに違いなかった。
「…………」
 いったいこの少女神は、何者なのか。封じられているように思える少女の小宇宙はそれでも雄大で、けれど脆く危うい。とても人を害するようには見えないが、少女自身の小宇宙からも冥府の気配がする。だが、少女に纏わり付く何者かの小宇宙からはただ少女を守ろうとする意思しか感じられず、他者を害する手段は少女には何も無いように思えた。
 ――考えても埒のないことだ。
 シジフォスは、見つけたカフスを手に少女の元へと戻る。不安げな少女に寄り添っていた犬のあまりに無防備な姿を見るに、やはり少女は無害なものにしか思えなくて。あっさりと探し物を見つけたシジフォスに驚きを見せつつも、安堵の表情を浮かべた少女はやはり、可憐であどけない。シジフォスはそっと少女の手にカフスを乗せてやると、血のように赤い瞳を見下ろして問うた。
「貴女は、冥府の女神なのか」
「……ッ!?」
 シジフォスの言葉に、大きな瞳が凍り付いたように見開かれる。自ら立てた予測とはいえ、雄弁な肯定となるその反応に何故か悲しいような気持ちが一瞬胸を過ぎった。けれど、少女がくじいた足のことも忘れて慌てて後退り、痛みに顔を歪めたことでそれは後悔に変わる。
「っ、」
「! すまない、大丈夫か」
 後ろに倒れそうになった少女の背に腕を回し抱き留め、もう片方の手でこれ以上足に負荷がかからないように支える。冷たく輝く銀色の装飾品に覆われているとはいえ、大部分は白い素肌が剥き出しになっている足に触れられ、はみるみるうちに真っ赤になった。
「あ、う、」
「危害は加えない。安心してくれ」
 兄以外の異性との近距離での接触に可哀想なほど真っ赤になり挙動不審でいると、それを正体を見抜かれた不安故と勘違いして低く優しい声で囁くシジフォス。どうにも噛み合っていないが、シジフォスが赤く腫れた患部に手を伸ばすとは怯えたようにぎゅっと目を固く瞑った。
「……?」
 けれど、にもたらされたのは痛みではない、柔らかな温もり。太陽のような暖かさが、じくじくと痛みを訴える足に流れ込む。真剣な顔付きでの患部に手を当てるシジフォスに、の心臓がどくりと音を立てた。
「……貴女が何者かは訊かない」
 静かに、シジフォスは言う。
「俺は本来、貴女の敵となるべき者なのだろう。だが、貴女は人を害する悪神には見えない。ならば俺も、ただ貴女を助ける者として手を差し伸べよう」
 暖かい。青年から流れ込む小宇宙は、血の巡る暖かさだった。完璧な、しかし冷たく無機質な美しさに囲まれて生きてきたには、熱いほどの。
「俺が何者かも訊かないでほしい。俺はきっと貴女を助けてはならないし、きっと貴女は俺に助けられてはならない」
「……なら、どうして」
「傷付き弱っている者を救わないのは、正義ではないからだ」
 硬質な、鋼のような言葉。にとっては救いであり、けれど寂しく悲しい言葉。が何者なのか、目の前の青年には大体の見当がついているのだ。そして青年はを助けるべき立場にない。それなのに、を助けてくれた。眩しいほどの、正義だった。
「俺と貴女は何者でもなかった。この瞬間は無かった。お互いが傷付けることも傷付くこともないよう、今この時は存在しなかったことにしてほしい」
「……はい」
 きっと、青年はの、或いは冥界の敵なのだ。そしては、青年の敵なのだ。それなのに、助けてくれた。それが正しいことだと信じているから。は、青年の申し出に静かに頷く。冥府の女神と知っていてなおを助けてくれた青年に返せる、唯一の誠意だった。
「でも、どうか、」
 小宇宙で自らを癒してくれた青年を、は見上げる。その瞳にはもう、怯えの色はなかった。
「ありがとうとだけは、言わせてください。優しいひと」
「……ああ」
 鳶色の目が、ゆっくりと細められた。
「謹んで承る、名も知らぬ女神よ」
 
BACK