楽園に戻ってきた、愛しい妹神の小宇宙。権能の全てを封じられる代わりに世界を自由に飛び回る神器を与えられた妹がどこに行こうとも、最終的に此処に帰ってくるのであれば大目に見るつもりではあった。毎度、人間の気配を纏わりつかせているのは不快ではあったが。兄が泥濘の泡や虫けら以下に見下し嫌っている人間を、愛する変わり者の妹。酔狂なことだと呆れてはいたが、それも妹のすることならば辛うじて許容できていた。ましては自らの権能に怯えて、人間に直接の接触は絶対にしないのだ。遠目に見て面白がるくらいなら、風変わりな趣味だと許してやることもできた。冥王に従って人間を滅ぼしたときに、幾つかは妹を楽しませる玩具として残してやってもいいと思う程度には。
「……我が愛しき妹神よ、俺を見ろ」
 けれど、これは許し難い。如何とも許容し難い。無垢で清らかで可憐で愛らしい妹神が、人間の小宇宙を、それも忌々しい、あの戦女神に連なる気配を纏わせて帰ってくるなど。元々人間に関するタナトスの許容範囲はおそろしく狭い。何者かが可愛い妹神に触れたとあっては、それだけで地上を蹂躙する理由になるほどタナトスの怒りを煽るには十分すぎた。兄神が怒ればどうなるかわかっていたからは必死に帰ってきたというのに、その努力も虚しく裏目に出てしまう。を助けてくれた青年に対してもただただ申し訳なくて、はぐっと唇を噛んだ。
「俺は、お前に対しては寛容なつもりではあったのだがな?」
「……ごめんなさい」
「些か甘やかしすぎたか? あの虫けら以下の汚物どもの百や千、嬲り殺すにはあまりに易いが……お前の躾と思えば大した手間でもないな」
 タナトスの非情な言葉に、は真っ青になって俯いていた顔を上げる。苛烈な兄神は、が人間と接触した罰として虐殺を行うと言ったのだ。神は一度そうと決めたことを違えはしない。紙のように白くなり言葉を失ったの頬を撫で、タナトスは吐き捨てるように呟いた。
「その足。人間に触れさせたのだろう」
 小宇宙の出処を追って、銀色の瞳が動く。もうほとんど腫れの引いた足を見下ろし、タナトスは柳眉を吊り上げた。
「神の玉体に、下賎な手を触れさせたか。お前の所有者はお前ではないぞ、。俺もヒュプノスも、その肌に人間なぞの手が触れることを許した覚えはない」
「申し訳、ありません、お兄様……」
「あまつさえ、その小宇宙を受け入れたか。清水に汚水を垂らすような愚行だな? 俺たちの所有物に人間などの臭いをつけた責を、どう贖うつもりだ?」
 頬から滑り降りた手が、細い肩を掴んでギリギリと万力のごとく締め付ける。兄の凄烈な怒りに怯えるだったが、このままでは人の街が消える。それも、ひとつやふたつでは済まない。どうにか兄の怒りを鎮めねばと、は縋るように怜悧な銀色を見上げた。
「罰は、受けます、どうか……」
「人間には手を出すな、と? お前があれらを気に入るだけでも忌々しいのに、肩入れまでするとはな」
「でも、助けてくれたんです。私が不注意で、足をくじいてしまったから……それでも互いのためにと、お互いこの邂逅はなかったことにしようと、そう、言ってくれたんです……」
「互いの為ではなく、我が身可愛さに口から出た言葉に決まっている。お前が冥府の眷属だというのは、あの犬どもにはすぐに看破できることだ。お安い正義だの愛だのとやらでお前に手を出しておきながら、冥界の者に報復を受けるのを恐れただけだろう」
「あの人はきっと、そんな人では、」
「……ならば、この小宇宙を辿って犬の住処を突き止めるか。我らの前に引きずり出して、それが虚言でないか確かめてやろう」
 冷たい銀色の目を眇める兄神の機嫌は、どんどん降下していく。自分を冥界に連なるものだと知っていながら攻撃もせず、見返りも求めず助けてくれた優しい瞳を思い出して、はぎゅっと胸の上で拳を握り締めた。この暖かい小宇宙を守れないのは、にとって耐え難い不誠実だ。ただでさえ兄神の目を誤魔化すこともできず、なかったはずの出逢いを看破されてしまっている。せめてこれ以上自分を助けたことで不利益を被ることのないようにと、はタナトスの悋気に怯えながらも覚悟を固めた。
「我が身をもって、かの人の誠意を証します、死の兄様。どのような罰だとて、甘んじて受けます。どうかご慈悲を、タナトス兄様。あの人の優しさに誠を以て報いたい私に、寛容をお与えください……!」
「……俺に人間を許せなど、そのようなことを言うのはお前くらいだ。愚かで愛しい妹よ」
「……申し訳、ありません」
「どのような罰でも受けると言ったな。身をもって誠を証すと。か弱いお前が、よくもまあそこまで言えたものだ」
 気に食わない。可愛い妹神が人間に肩入れするのも、自分の身を張ってまで人間をタナトスの怒りから庇おうとするのも。気に食わないが、これが変えようのない妹神の本質だということはとうの昔に思い知っていた。人間を見下し、嫌い、虫を潰すようにその命を刈るのがタナトスたちであるように、人間を愛し、慈しむのがという存在なのだ。母神が呆れ、哀れむほどに権能と本質が乖離してしまった女神。がいくら人間に心を砕いたとて、彼女の小宇宙は人間を慈しむどころか傷付けるのだ。いっそ人間を蔑み憎むように生まれてきていたのなら良かっただろうにと、タナトスは溜め息を吐いた。
「折檻だ。当分は閨から出ることを許さんぞ」
 美しく可憐な妹神を抱き上げると、紅玉のような瞳が怯えに震える。それでもぐっと唇を噛み締め、されるがままにタナトスに身を委ねようとするに、タナトスは面白くなさそうに片眉を上げた。
「いつも閨で泣いて許しを乞うお前が、大した虚勢だ。神に二言は無いと、解っていような」
「……はい」
 神に性交など必要ない。ましてやどこぞの天空神とは異なり、タナトスもヒュプノスも獣のような情欲に自らを振り回されることなどない。それでも、愛おしい妹神は彼らにとって性愛の対象だった。永遠の少女そのものである体躯に跨ったとき、彼らは儘ならない感情と愛情とを嫌というほど思い知らされる。兄の烈しい抱き方に怯え、泣いて房事を拒否するを、彼らは大切に扱ってきた。妹が怯えぬようにと努めて自分を抑え、欲よりも愛しさでを抱いた。だが、兄神の怒りを鎮めるために身を捧げるを目の前にして、常のようにはいられるわけもない。元よりタナトスの気性は苛烈で、その怒りとなれば殆どの者が関わり合いにならず逃げようとするほどだ。その激情を全て自らの身で受けると、それこそが人の誠実さを信じた自らの証明だと、そう妹神は言うのだ。震える体を抑えて、怯える瞳を瞼の裏に隠して。人間などのために。
愚かしい。まったくもって愚かしい。妹神をそんなものに貶めた人間が憎らしく、けれどのそんな歪ささえ愛おしくて仕方ない。
「まったく、憐れで可愛い愚妹よな」
 それでも実際に、タナトスの怒りを解いてみせた。激する感情の奔流を、人間ではなく自分に向けてみせた。あれだけ人間に対し噴火寸前に煮えたぎっていた怒りは最早なく、妹神への執着と劣情ばかりが燃え上がっている。小宇宙や権能などとは関わりなく、の言葉一つで。
「俺を狂わせるのはお前くらいだ、
 雪のように白い頬に手を這わせ、口付けを落とす。神格でいうならタナトスの方がよほどより上であるのに、どうしてもには甘くなってしまう。遥かな時を共に過ごした妹神だが、どうにもこの力関係はが生まれたときから変わらない。それが少しばかり腹立たしくて、タナトスはの柔らかい額を指で弾いた。
 
170719
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