行為に疲れ、ヒュプノスの権能で深い慈しみの眠りに落ちたを、膝枕をしてやりながら優しく撫でる。フッと背後に現れた気配に、ヒュプノスは目をやることもなく口を開いた。
「……タナトスか」
「なんだ、眠らせたのか」
 どっかりと隣に座り込んだタナトスは、あどけない寝顔を晒すの額を指で弾く。じとりとした咎めるような弟神の視線に、タナトスは肩を竦めた。
「何故、お前は態々の小宇宙に呑まれるような真似をする」
 ただでさえ激しやすいタナトスが、の権能の影響を受ければその凶暴性は如何程のものか。何故の負担を増やすようなことをするのかと非難めいた視線を向けるヒュプノスの言葉に、タナトスは鼻を鳴らす。
「これの小宇宙ひとつ、受け入れずして愛とは言うまい」
 負の権能をも受け入れてこその愛だとタナトスは言う。幼い妹神の小宇宙を飲み下せずして何が愛かと。が彼らのもたらしてしまう痛みや苦しみを受け入れるように、の本質を在るがまま受け入れることが愛だと、兄神は言うのだ。けれどヒュプノスはそれを理解できない。の権能に煽られるままに欲をぶつけては、が余計に苦しみ、傷付いてしまう。脆く弱い妹神に自らの肥大化した欲を嚥下させるのが愛だとは、ヒュプノスには思えなかった。
「……お前との間に子が生まれない理由が、少し理解できた」
「何?」
「お前の愛は、の全てを我が物にせんとする愛だ。と完結した世界を望むお前に、なるほど子はできまい」
「……何を言うかと思えば」
 の髪を優しく撫で続けるヒュプノスに、タナトスは笑った。ゆっくりと上下する薄い腹を撫でて、挑むような目をヒュプノスに向ける。
「お前との子……あの夢神こそ、お前の欲を実に鮮明に表しているではないか」
「……どういう意味だ」
「パンタソスの二面性、イケロスの獣性、モルペウスの夢の檻。どれをとっても、お前のに対する在り方の表れだろう」
「……ではオネイロスは何とする」
「あれはお前そのものだろう! あれのを見る目など、お前と瓜二つではないか」
 愉快そうに言い放ったタナトスに、ヒュプノスは目を細めた。を撫でていた手が、ぴたりと止まる。夢神の四柱の中でもいわば長子にあたるオネイロスは、一番ヒュプノスに似ている。それが容姿に限った話ではないことはヒュプノスもわかっていたが、半身に指摘されるとどこか面白くない気持ちだった。
「だが、あれは私とは違う。あれは愛し方だけは、に似た」
 届いてはならない手を伸ばすことはなく、ただ見つめながら想う。オネイロスは確かに、の子だった。彼はヒュプノスととの関係を正しく理解し、弁えている。可憐で純粋無垢な母神が死と眠りの所有物であることを理解し、に手を伸ばすことはなかった。オネイロスの視線の行き先を持ち出してヒュプノスの激情を揺がそうとしたタナトスは、つまらなさそうに鼻を鳴らす。
「お前は自らの感情がを傷付けるのが怖いから、何人も子を成すのだろうよ」
 自分が持っている感情が肥大するのを恐れて、切り離すように。溢れる感情が、を傷付ける前に自分から引き剥がして別の個にした。
「次に孕ませるのは嫉妬か? 切り捨てたエゴにすら妬みの感情を持つなど、お前は実に愉快な神だな」
「嫉妬について、お前にどうこう言われる筋合いはない」
 タナトスの嫉妬深さときたら、もしの胎に彼の子が宿ろうものなら生まれた瞬間に丸呑みに喰らってしまいそうなほどだ。かの大神と同じことを、地位や命への執着ではなく妹神への執着からやってのけてしまいかねないのがこのタナトスという神だった。そも、今回のことだとてタナトスが人間に嫉妬したのが始まりだ。ヒュプノスも、同じように悋気をにぶつけはしたが。
「それで、その聖闘士は見つかったのか」
 くびり殺してやると息巻いていたタナトスが妙に落ち着いているのを見て、もしや既に殺してきた後かとヒュプノスは首を傾げる。けれどタナトスは、忌々しそうに首を横に振った。
に残っていた小宇宙を辿る前に、俺が塗り替えてしまったからな。だが、どのみち聖戦が始まれば塵芥と散る命だ。今生の聖闘士どもは、念入りに殺してくれよう」
 元来人間を虫けら以下の泥濘と見下すタナトスが、凶暴な笑みを浮かべる。聖戦、という言葉にヒュプノスは静かにの瞼を撫でた。
「聖戦になれば、またこの可愛い愚妹は泣くのだろうな」
「ならば、また夢界に閉じ込めておけばいい。お前の本望ではないか」
 タナトスが笑うと、ヒュプノスもうっそりと唇の端を吊り上げる。地上と冥界が争うことに泣く愚かな妹神を、ヒュプノスは聖戦の度に夢界に閉じ込めてきた。柔らかな夢に包まれて、目が覚めれば全てが終わっている。冥闘士の死に泣き、地上に残された命に慈愛の笑みを浮かべる、愚直なまでに命を愛する。物言わぬ静かな寝顔は、二百数十年に一度のヒュプノスの愉しみだった。眠りという牢獄に、愛しい妹神の魂を閉じ込めて。相反する本質と性情に苦しみ傷付いた心を夢で慈しみ、癒して。それは唯一、ヒュプノスがを傷付けることなく愛してやれる時間だった。
「聖戦が始まれば、は長い眠りに就く。目覚めたときには、件の聖闘士はお前の手の内だ、タナトス」
「そうだな。もう二度と、出会うことはあるまいよ」
 今はひと時の安らぎを。いずれは、長き偽りの安穏を。須臾の邂逅など、永き神の生の中では砂粒よりも些細でちっぽけなものだ。愛しい妹神は変わらない。人を愛し、愛を恐れ、苦悩と傷の中に生きていく。変わらなくていいのだと、双子神は雪よりも白い髪を撫でながら笑うのだった。
 
171004
BACK