「そういえばシン、この間あなたが言っていた少女についてですが……」
「何かわかったのか?」
「……具体的なことは、何も。けれど、聞き込みによると意外と目撃情報は多かったんです」
執務の手を止めて話しかけてきたジャーファルに、シンドバッドも嬉々として書類を決裁する手を止める。それに苦々しそうな顔をして書類を追加しながらも、ジャーファルは話を続けた。
「誰も話をしたとか直接的な接触はしていませんが、時間帯に関わらず多種多様な目撃情報が寄せられました。気付けば消えているとかがほとんどで、目の前で直接消えたという話は酔っ払いの戯言程度でしたが……」
じとーっとした視線を向けてくるジャーファルに、呑んでない呑んでないとシンドバッドは慌てて首を横に振る。
「……ええ、まあ、そこは信用しましょう。ただ問題は……」
「どうした?」
珍しく言い淀む様子を見せたジャーファルに、シンドバッドは目を瞬かせる。眉間に皺を寄せて、ジャーファルは言葉を続けた。
「半数以上の目撃情報は、下手をすれば数十年前まで遡るんですよ……」
「……何?」
シンドリアは島を開拓した移民国家である。とはいえ、ある程度の住民は元からこの近海に居を構えていた者たちで。そうした先住民の血を引く者たちの間では、昔からその少女を見たという話があるのだそうだ。祖父や祖母からそういった話を聞いたことがあるという年寄りまでいて、それも信用するなら少女は一体何者なのかという疑惑が上がってくる。あの特異な容貌からして他人の空似というのは考え難く、けれど常に目撃されたのが『少女』であることから例えば母子であるとかいったことも考え難い。
「ごく一部のものですが、その少女が『南海の神様』であるという話までありましたよ」
「南海の神様というと、あの?」
「ええ、あの。南海生物と戯れていたという話まであります」
謝肉宴の時にもその存在が示唆される、この近郊で細々と祀られている神。あのお面からは随分かけ離れた容貌だが、神様と言われればひどく納得がいった。確かにあの神秘的な雰囲気は、神と謳われるに相応しい。なるほど、と頷くシンドバッドに、あくまで噂ですよ、とジャーファルは呆れた顔で釘を刺した。
「やあ、また会ったね!」
「…………」
二度目の邂逅は、探し回って得た奇跡だった。目撃情報が比較的多い夜の港を片端から歩き回ること数週間、ようやく再会できた少女に駆け寄ったシンドバッドはさりげない動きで少女の手を取る。小さな手のひらは、ひんやりと心地よい冷たさだった。ぼんやりと夜の闇に浮かぶ白い頭頂部と、宵闇に溶ける深い蒼。紺碧との境界がゆらゆらと揺れて、少女は繋がれた手を静かに見下ろした。
「……あたたかいのね」
漣のような小さな声が、夜の空気を震わせる。どんな声だろうとずっと思いを巡らせていたその声は、想像以上に心惹かれる響きを持ってシンドバッドの鼓膜を震わせた。昂揚に高鳴る胸は、まるで迷宮攻略を始めたばかりの少年の頃のようにバクバクと鳴り響いている。ぎゅっと両手で少女の手を握り締めて、シンドバッドはにこりと笑った。
「あの朝君に会ってから、君のことが忘れられなくてね。どうにかしてもう一度君に会いたいと思っていたんだ……よかったら、俺と話をしてくれないか?」
握られた手を見下ろす少女の瞳に嫌悪や怯えの色はなく、ただゆらゆらと夜の海の色を映して静かに凪いでいる。それを好感触だと捉えたシンドバッドは好奇心やら何やらを満たすために少女の手を引こうとするが、次の瞬間にシンドバッドは瞠目する。
「……嘘だろう?」
しっかりと捕らえていたつもりだった。けれど、目の前には既に少女の姿は無く。手の中にも、あのひんやりとした温度も感触も無い。拒絶されたのだと、心のどこかが頭よりも先に理解した。
ざざん、と少しだけ荒い波の音が耳を打つ。一体何が彼女の気に障ったのだろう、とシンドバッドは呆然と手のひらを見下ろした。ぽっかりと空いた心のどこかに、落胆の二文字が流れ込む。胸を満たした苦い感情に、シンドバッドはただ沈み込む気持ちでいた。
160220