「……これは、婆の戯言だと思って聞き流してほしいのですが、」
 あれから更に数週間。ジャーファルやマスルールなど八人将の手を借りても少女の姿すら見つけることが能わず、行き詰まったシンドバッドは彼女が南海の神様だと言い伝えられている家の老婆を尋ねた。老婆の曾祖父が少女の姿を見たことがあるらしく、その時少女は海の上を地上のように歩き、南海生物を含む海の生き物たちと楽しげに戯れていたという。その姿を見て当時青年だった老婆の曾祖父は少女を南海の神様だと思ったのだとか。どうしたら彼女にもう一度会えるのだろう、自分は彼女に嫌われているのだろうか、そう苦々しい表情を浮かべて悩むシンドバッドに、老婆は優しい目で微笑んだ。そして、少しだけ困ったように眉を下げる。
「どうかお気を悪くなさらないでください、王よ……もしかしたら海神さまは、王のことを嫌っていらっしゃるのかもしれません」
「…………」
「王は、年に数度襲い来る南海生物という脅威を、打ち払ってくださいます。その上、民が怯えぬよう娯楽としてそれを広めている……我ら人の子にとって、それはとても有難いことです。自然の脅威が、人の楽しみになるのですから」
 けれど、と老婆は悲しそうに笑った。
「海神さまにとって、彼ら南海生物は家族のような、我が子のようなものでしょう。自分の眷属が見世物にされ、切り刻まれることは、海神さまにとってはきっと、その身を刻まれることと同等の苦しみです。自然には自然の、理がありますゆえ……」
「…………ああ」
「我らは人の理の中で生きておりますから、生きるためには他の生物を殺めることは致し方のないことです。海神さまも、きっとそれはおわかりです。同様に、人が国を興し賑やかに発展させていく中で、生き物が棲家を追いやられ、徒に傷付けられるのも、どうしても起こりうることでありましょう……海神さまは、海に生きる全ての命を愛していらっしゃいます。人も、そうでないものも。昔岩場で私が足を滑らせて溺れかけた時、あの方は私の命を救ってくださいました」
「何? それは本当なのか」
「はい、海神さまは無用な騒ぎを好まないそうで、今日起こったことは夢だと思って、無闇と他人に広めないように、とおっしゃいましたが……」
 その手がまだ滑らかだった時のことを思い返すように、老婆はしわくちゃになった手の甲を見下ろす。自分を救ってくれた神々しい、優しい少女。あの後も数えるほどだが彼女の姿を見ることはあった。言葉を交わすことは二度とは無かったが、だからこそ理解できる彼女の憂いもあって。
「海神さまにとって、人も他の生き物も、等しく海の命はわが子の命なのだと……人が国を興していけば、犠牲になるのは他の命です。それも理と自らに言い聞かせたとしても、割り切れないものは確かにございましょう……ですからきっと王である貴方様には、思うところもあるのかと」
 出過ぎたことを申しました、と老婆が盲いた目をシンドバッドに向けて深々と頭を下げる。いや、と首を振ったシンドバッドは、老婆に礼を言ってその家を辞した。

「海神さま、か……」
 その夜、シンドバッドは窓辺で海を見下ろしながらひとり晩酌をしていた。仮にあの老婆が言うように少女が海神だとして、人の王であるシンドバッドに理解はできても納得できないやるせなさを抱えているのだとして。『あたたかいのね』、あの言葉は嘲笑だったのだろうか。決して、そういうものではなかった気がするのだ。ゆらゆらと揺れる瞳は、ただどこまでも綺麗だった。
「…………」
 何故だか、今日は酒が旨くない。盃を置いて、シンドバッドは夜の闇に目を凝らした。ふとした瞬間に、あの美しい髪が暗闇の中に浮かび上がってくるような、そんな気がして。夜の水面が、あの不可思議な色の瞳に反射しているような、そんな錯覚に囚われる。
「……君の名前は、どんな響きなんだろうな」
 ただ、強く惹かれる。胸の奥が、彼女という存在を渇望している。国防のために正体を突き止めねばという気持ちや、シンドリアのために何か利用しようという気持ちは、ほとんど無かった。ただ、会いたいと、ただ、あの心地よい冷たさに触れたいと、その気持ちばかりが胸中に渦巻いている。何故だか、彼女には嫌われたくないと思っている自分がいることに気付いた。まだ碌な会話すら交わしたこともない相手に、何を思っているのだろう。そう思いはしても、ふとした時にあの瞳が笑みを形作るところを思い浮かべようとしている自分がいて。
溜息を吐いて、酒を喉に流し込む。酔った上での幻覚でもいいから、姿を見せてはくれないものか。けれどどんなに窓の外を見つめ続けても、少女が現れることはなかった。
 
160220
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