『名前が無いのは、不便だろ』
『そうでもないわ。個に名前をつけたがるのはヒトくらいよ』
『でも俺は不便だ。お前の名前を呼べない』
『何か問題があるの? 私は私しかいないのに』
『名前のないお前は、俺の名前を呼んでくれないだろ』
 そう、青色は言った。

「やあ、そろそろ君の名前を教えてくれよ」
「……本当に追い回すのね」
「俺はこう見えて、諦めの悪い性格なんだ」
 浜辺でぼんやり座り込んでいた少女の手を握り、微笑むシンドバッド。手の甲を指で優しくなぞられると、肌が粟立つ感覚がした。
「あなたのおかげで、最近とても賑やかだわ」
「それは皮肉か?」
「ええ、たぶん」
 少女は静寂を愛していた。静かな水面の奥に、様々な命が息づく静寂を。シンドバッドが隣にいると、それが聞こえなくなってしまう。思ったよりも面倒な人間だと思いつつも、少女はシンドリア周辺に現れることをやめなかった。理由は、自分でもよくわからない。人の日常を覗き見はしても、人との接触を避けて過ごしてきた彼女の心は、人からはまだまだ遠かった。
「それで、君の名前は何て言うんだ?」
「……そもそも名前が無いとは考えないのね」
 少女の純然たる疑問に、シンドバッドは虚をつかれたような顔をする。きょとんとしたその顔は意外と幼いが好感が持てると、少女はぼんやり思った。
「だって君は、いつも名前を聞いたときに答えはしなくとも、あることを否定はしなかっただろう?」
「それもそうね」
「……君が言いたくないのなら、無理には聞かないが……それでも、何か呼び名をつけさせてくれないか」
 呼べる名前が無いというのは、寂しいから。そう笑うシンドバッドに、一瞬青色の記憶が重なって。けれど思えば全然似ていないと、少女は珊瑚色の唇を引き結んだ。
「言いたくないわけじゃないわ。ただ、あなたが思ったよりも面倒そうだから、言ってもいいかどうか、悩んでいるだけ」
「それを言いたくないと言うんじゃないのか?」
「そうなのかしら。なら、言いたくないということにしておくわ」
「……君、俺のことが嫌いなのか?」
「そう言ったと思うけれど」
「たぶんとも言ったじゃないか」
 不満げなシンドバッドに、少女はクスクスと笑う。ひたすらに自分を探し回って、追いかけ回して、隣で騒いで、触れようとして。シンドバッドは面倒くさいし、煩いけれど。
こうして同じヒトと関わりを持ち続けるのは初めてで、胸の内に生まれた感情は決して悪いものではない。もう少し、許してもいいかもしれないと、そう思った。
「……よ」
「え?」
「私の名前。もっとも、名付けたのは昔の知り合いだけれど」
 元々私に名前なんて無かったもの、そう笑う少女の言葉を、シンドバッドは数秒かけて漸く理解する。
、」
「ええ」
……!」
「何かしら、シンドバッド」
 言いようのない感覚に、シンドバッドの胸は強く締め付けられた。ぎゅううっと熱い何かが膨れ上がって、耳まで熱くなる。目の前の水面はゆらゆらと揺れていたが、そこには確かにシンドバッドが映っていた。

 感極まって抱きつこうとすると、クスクスと笑う声を残して少女の姿はかき消える。今日もまた、海の化身は海に帰ってしまったのだろう。けれどシンドバッドは幸福だった。怒り狂ったジャーファルが彼を探しに来るまで、ずっとその場に佇んで、熱く騒ぐ胸を抑えていた。
 
160225
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