、今日は君に贈り物があるんだ」
「?」
 珍しく内地寄りの森に姿を現していたのところへ、手に橙色の球体のようなものを持ったシンドバッドがやって来る。おそるおそる、差し出された丸いそれを受け取ると、ふわりと心地よくどこか胸の弾むような香りが鼻腔をくすぐった。すべすべした表皮は、太陽の光を受けて鮮やかなオレンジ色を魅せる。柔らかな産毛を撫でる感触はなんとも言えない手触りの良さがあって、はくるくると手の中で球体を撫で回した。初めて玩具を与えられた子どものように、矯めつ眇めつして手の中の果実を見るにシンドバッドはくすくすと笑みを零した。
「食べないのか?」
「タベル?」
 異国語を問い返すように驚いて固まったの前で、シンドバッドも硬直する。まさか、とシンドバッドはおそるおそる口を開いた。
「君、食事をしたことがないのか?」
 問われたは、果実を両手で器用にくるくると回しながら神妙な表情で暫し考え込んだ。そして、無駄に真剣な顔をしてその水面のような瞳を揺らがせる。
「……そうね。無いわ」
「一度も?」
「一度も」
「……君はいつから存在していたんだったか」
「この星に生命がやってくるよりは前からかしら」
 こどもたち、海の生命が生命活動の一環として行っているそれを知ってはいても、海の化身であり概念にも近いはその必要が無かったのだろう。シンドバッドが頭を抱える横で、器は同じなのだからおそらく食事は行えるのだろうとはぼんやり思った。
「…………損失だ」
「え?」
 顔を覆ったシンドバッドが呟いた声を聞き取れず、は毛先にいくにつれて蒼くなる髪を揺らして問い返す。そんなのひんやりとした手首をガシッと掴んで、シンドバッドは鬼気迫る表情を浮かべて口を開いた。
「食事とは生命の営み、人の文化が生み出した極みの一端だ。それを知らずにただ存在し続けるなんて、君の生におけるとんでもない損失だ」
「そう、かしら……」
「そうだ! 食べること、飲むこと、それはあらゆる生命にとっての普遍の喜びだ! それを知らないなんて、全く嘆かわしい……」
「し、シンドバッド?」
 何かしら箍が外れているようなシンドバッドに珍しく押された様子のが、窺うようにシンドバッドを見上げる。ふるふると震えていたシンドバッドは、真摯な光をその目に宿しての白い手を強く握り締めた。
「南海の神ともあろう者が、この国で満足な食の喜びを知らないなどあってはいけない。、王宮に来なさい。俺が食とは何たるかを全力をもって教えてあげるから」
「え、ええと……申し出は嬉しいけれど……」
 少女の体を震わせたは、神がかった直感でこのままシンドバッドに流されてはいけないと感じ取り身を引く。片手に持っていた果実を顔の近くまで持ち上げて、は精一杯の笑顔を浮かべた。
「今日はこれだけを食べるわ。シンドバッドが初めてくれたものだもの」
……!!」
 初めて聞いたようないじらしい台詞と共に浮かべられた笑顔に、シンドバッドは感極まった様子でを強く抱き締める。未だ人の体温に慣れず接触を厭うだったが、いつものようにここで姿を消してしまっては後々が面倒そうだと内心溜息を吐いて踏みとどまる。シンドバッドの腕の拘束が少し弱まったところで、食べるとはこういう行為だったはず、とは橙色の表皮に歯を立てた。
「あ、、」
「……っ!!」
 途端に口の中に広がったなんとも言えない渋面を催す味に、は思いっきり顔を顰める。匂いと同じうっとりするようなふわふわと溶ける味は確かに存在していたが、それを打ち消すレベルで酷い味がする。ヒトはこれを好んで食べているのだろうかと齧りかけの果実を両手で持ったまま動けなくなってしまったを前に、シンドバッドはぷすっと空気が抜けるような笑い声を吹き出して。
「っ、ははっ、そうだよな! 食べること自体初めてなんだったな、あはは、ははッ!」
「…………」
「いや、悪い悪い、。その果物はな、外側の皮が苦いから剥いて食べるんだ。中の身はとても甘いんだが……ふ、ふはっ、」
「にがい、あまい……」
 思いっきり笑われていることに少し納得のいかない思いもあるものの、それ以上に初めて知った感覚を吟味するようには言葉を繰り返す。爪でいくらか表皮を剥がして、現れた黄色い果肉をおそるおそる口に含む。今度は舌先に甘い味だけを感じられて、はふわりと緩んだ笑みを浮かべた。
 
160310
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