誘拐。与えられた任務の内容を見たとき、彼らの脳裏を過ぎったのはその単語だった。
「ESP能力者、ですか」
資料を捲った甘利の声は、あくまで淡々としている。訝しむような気配も、馬鹿にするような気配も、一切なく。隣の田崎も、ちらりと甘利に視線をやっただけだった。
「可笑しいか」
甘利に答えた結城の声も、至極淡々としたものだった。ここD機関において、体術や物理学を始めスリやら鍵開けやら果ては女の口説き方まで修めた彼らだったが、さすがに超能力だなどというものとは縁がなかった。しかしその存在を頭から否定するほど凝り固まった頭をしているわけでもなく、甘利は肩をすくめた。
「そういうのは、田崎の得意分野かと思いまして」
「俺がやっているのは手品だ」
すかさず隣から鋭い否定が入ったが、甘利はしれっとそれを無視した。結城の前ということもあり、田崎もそれ以上何か言ってくることはなかった。
「問題なのは、対象のESP能力の真贋ではない」
結城の言葉に、二人は揃って資料のある一面に目を落とす。結城が問題視しているのは、その『予言』とやらの内容だった。
「大量殺戮兵器の投下、日本の敗戦、アメリカの監督の下での新憲法立案……そして、天皇陛下が『自分は神ではない』と玉音放送、ですか。物騒な話ですね」
憲兵にでも知られれば、たちどころに縛り首だ。狂言にしては、大胆すぎる。だからこそ信憑性も高いのだろうが、対象の年齢を見れば思わず溜め息が出た。
「六歳の少女なんかを、担ぎ上げてる連中がいるということですか」
「そうだ。その少女こそが真の現人神だと、祭り上げている。今はまだ水面下の活動だが、放置していればすぐに肥大化するだろう」
その能力が本物であれ偽物であれ、一度火が点いてしまえばあっという間に劫火に変わる。火種は早期に始末しなければならない。そのための『保護』任務だった。
「お前たちは、子どもの扱いに長けている」
それにしても何故自分たちなのだろう、と思った二人の胸中を見透かしたかのように、結城は唐突に口を開いた。甘利は思わず苦笑を浮かべる。
「まるで中佐の方が、超能力者みたいですね」
それに答えることはなく、下がってもいいと結城は淡々とした声で言う。田崎と甘利は、黙って部屋を辞した。
「………………」
「………………」
くりくりとした大きな瞳が、じっと甘利を見つめている。隣で扉を見張っている田崎が早くしろというように甘利に視線を寄越すが、甘利はこれはないだろう、と内心で結城を恨んだ。
確かに甘利も田崎も、子どもの扱いは得意な方だ。少なくともナルシストの三好や、割りと短気な波多野、虫も殺せぬ顔に見せかけてサディスティックな実井を寄越すよりは、ましな人選だ。けれどこの子どもを見ていると、福本や小田切の方が適任だったのではないかと思わせられる。
ぺたりと片側だけ潰れている着物は、幼子の右脚がないということを強調していて。包帯の巻かれた右眼は、眼窩にあるべき球がないことが見て取れる。幼子のくせに妙に泰然とした態度、雰囲気。不審者が入ってきても驚くどころかむしろこちらが圧倒されるほどの落ち着きよう。そういえばこの子どもは『人の心が読める』のだったと、甘利は嘆息した。信じていなかったわけではないが、軽く見ていたことを結城に見透かされていたのだろう。つまるところ、この世に自分が知らないだけのものなどたくさんあるのだという、迂遠な指導。たかが子どもの誘拐と舐めてかかった自分たちが、愚かだったのだ。まだまだ、世の中には腐った現実が山と埋もれている。
「はじめまして、お嬢さん。俺たちは……」
「すぱい、なのでしょう。にげるならにげる、連れていくなら連れていくで、はやくしてもらえますか。五分後にはみまわりがきます」
「あ、ああ、そう? じゃあ、お言葉に甘えて攫わせてもらうね」
気味が悪いほど落ち着き払った態度と、全て解っているかのような口振り。抱き上げても抵抗ひとつせず、「叫んだりしないから猿轡はやめてほしい」とのんびりした口調で要求してくる始末。挙句の果てには目隠しを取り出す前に「しても見えるので同じです」とこれまたのんびりとした口調で言われた。
「そうなの? でも、一応形式だけでも」
「かたちから入るのはだいじですね」
頬を引き攣らせながら目隠しを取り出すと、あっさり納得される。どのみち意味などないとのことだが、脱出経路を見られたくないのはスパイとして染み付いた職業病のようなものだ。隣の田崎は、何とも言えない顔で二人のやり取りを聞いていた。
「右の道をつかうのはやめたほうがいいです。今日はみまわりが気まぐれを起こしているようですから」
見回りの経路を予め調べておいた甘利と田崎は、子どもの発言に顔を見合わせた。田崎が右の通路を伺うと、確かに気だるそうな足取りで近付いてくる明かりがある。いつもは左回りでやってくることを調べていただけに、揃って信じられない気持ちで幼子を見下ろした。
その後も目隠しをされているにも関わらず妙に堂々とした態度で、甘利の腕の中の幼子はあれやこれやと忠告をする。元々ザルにも等しい警備だったが、行きより遥かに楽な道程で二人は組織のアジトを後にした。
人の心が読める。未来が見える。過去が見える。あらゆる現在が見通せる。千里眼だの神の眼だのと祭り上げられた少女の名前は、世間から消し去られていた。元は地方の小さな農村の生まれで、物心つく前から小さな奇跡を起こしていたのだとか。村の者は少女を「お社様の目をお借りしている」子だと大切に慈しんで育て、何かあれば少女の助言を乞うた。それが近隣の村に伝わり、街に伝わり、とある男の耳に入ってしまった。天皇の神性を否定し、天皇を排した新政府の樹立を目的とした反政府活動を組織していたその男は、民衆の支持を得る手段として少女を使うことを思いついたのだ。最初は人心を掴む手段になればいい、くらいに思っていた男が狂ったのは、少女に見させた『未来』が原因だった。大日本帝国の敗戦。天皇が自らを人間と認める放送。民主化と、その先にある未来。自らが求める未来が敗戦の先にあるのだと知った男は、少女を今現人神として祭り上げ、自分が後見人として実権を握れば敗戦すら避けられるのではないかという狂気に囚われた。野心は肥大化し、少女は村から強引に連れ出され軟禁され、元いた村は焼き払われた。少女はどう未来が変わったとしても、男の野心が叶うことはないと知っていた。そのために、いつか自分が男に殺されるだろうことも。だから自らを攫いに来る機関の存在を『見て』、呆気ないほどあっさりと自らを委ねたのだ。助手席の甘利の腕の中で、問われたことに少女は舌足らずながらも淡々と素直に答える。精神年齢は到底子どもではないな、と甘利は再び胸中で溜め息を吐いた。
「その、脚と目は生まれつきかな?」
「いえ、あの人に捨てられました。その方が、らしいからと」
田崎の問いに、これまた淡々と答える子どもに眩暈がしそうになった。一眼一足。より神秘性を増すためだけに、片脚を失い片目を潰された。それを何でもないように語る子どもに哀れみの欠片も抱かないかといえば、嘘になる。いくら人でなしとはいえ、喜怒哀楽がないわけではない。要はそれに囚われなければいい話だ。家族も故郷もなく、体の一部も奪われ、いつか殺される未来を避けて人でなしに身を委ねた子ども。さすがに可哀想だと、思わずにはいられない。思うだけでは、あるのだが。
「この後、どうなりたい?」
「……あたたかいお湯がのみたいです」
この先の身の振り方について少し意地悪な質問をしたつもりが、思わぬ返答が返ってくる。田崎と甘利はぎょっとして、小さな子供を見下ろした。碌に食わせてもらっていないような容姿ではあったが、お湯すら飲めないほどとは。
「しばらく、水しかのんでいなくて」
「も、もうちょっと贅沢を言ってもいいんだよ」
帰ったらすぐにでも福本に引き渡そう。そして湯気の立つ粥を用意してもらおう。そう決心した甘利は、幼子の少しパサついた髪をぐりぐりと撫で回したのだった。
170514