「あのひとは、少しかわいそうでした」
結城の机の前に置かれた椅子にちょこんと腰掛ける少女は、場違いな人形のようだった。目隠しを外され結城の部屋に置いていかれた少女は、結城の質問に平坦かつのんびりとした口調で答えていた。それは到底故郷を焼かれ見知らぬ土地で虐待を受けていた子どもの態度ではなかったが、結城はそんなことに動じることはなく冷やりとした声で質問を続ける。自分を軟禁していた男について尋ねられたとき、少女は少しだけ眉を下げた。
「わたしをいくらいじめても、未来はかわらないんです。未来をきめるのはわたしじゃないのに、わたしが変えられると信じていたんです。わたしが決められるのは、わたしの未来だけなのに」
男は、自分の望む通りの未来を言わないと怒り狂った。食事を抜いたり、殴り付けたり。お前にはできるはずだ。お前なら未来を望む通りに変えられるはずだ。そう怒鳴り散らした。少女にできるのは、見ることだけだというのに。
「未来はかえられます。かわります。こんな目じゃなくて、ひとのちからで。それをしんじなかったあのひとが、少しだけかわいそうでした」
「そうか」
淡々と、結城は聞き取りを進める。今回の火種になった『予言』のことも、それ以外のことも。そしてその結果、結城が下した判断は。
「教材として保護、でありますか?」
「その軍人丸出しの口調をどうにかしろ」
大東亞文化協會において、未だ軍人臭さが抜け切らない佐久間に結城は唇を歪めた。あの魔王が腕に幼子を抱えているというだけで度肝を抜かれる光景なのに、その幼子ときたら泰然と結城の腕の中で佐久間を見上げているのだからたいしたものである。
「『本物』は珍しい」
それだけ言って、結城は佐久間に幼子を受け取らせた。荷物のような雑な扱いに文句一つ言うこともなく、くりくりとした大きな瞳で佐久間を見上げる少女。その脚の感触に違和感を覚えて、佐久間は結城に視線を向けた。
「右は義足だ。右眼も義眼を入れている。慣れるまでは貴様が主立って補助をしろ」
「は、……はっ!」
曲がりなりにもエリートの軍人である佐久間ではあるが、子どもの世話を言いつけられたことに戸惑いこそすれ拒否をしたりはしなかった。上官の命令であるということもその一因だが、何より佐久間の人柄によるものが大きい。いくら中尉としてのプライドがあれど、一眼一足の幼子を前にして子守などできるかと言うには、佐久間はあまりに人が良すぎた。
「その、この子の名前は……」
「わたし、おなまえありません」
佐久間の問いにのんびりとした口調で答えた幼子に、佐久間は思わず目を瞠る。狼狽を隠さない佐久間をちらりと見遣って、結城は口を開いた。
「とでも呼べ」
「、ですか」
それが果たしてどういった経緯で少女の名前になったのか、佐久間には知る由もない。けれど少女は嬉しそうに、……と結城に与えられた名前を繰り返していたので、佐久間は眉間の皺を緩めた。教材とはいうものの少女に何をさせればいいのかと問えば、何もさせなくていいから好きにさせておけと返ってくる。戸惑う佐久間だったが、ここの機関生たちであれば指示を受けて教材を活用するのではなく、自ら教材の使い方を考えることからが既に訓練なのだろう。外にだけは出すなという結城の指示に、佐久間は黙って頷く。
「よろしくお願いします、さくまさん」
「ああ、よろしく」
ありふれた黒髪と、ありふれた焦げ茶の瞳。どこにでもいる少女の、断片的に伝え聞いた境遇に同情せずにはいられない。憐れみは時に侮辱ではあるが、佐久間は少女に対してその感情を排することはできなかった。ここにいて結城の庇護を受ければ、まともな衣食住は保証されるだろう。けれど少女はきっと、もう二度とまっとうな人間の道には戻れないのだ。女はスパイにしない方針の結城ではあるが、それ以外の利用価値を見出したからこそここに置くのだろう。全てが見えているなど、却って地獄なのではなかろうか。そう思わずには、いられなかった。
「ひとまず食事を与えてやれ」
飯も食わせていなかったのか! と思わず叫び出しそうになるのを、佐久間はすんでのところで押し込める。この少女が来たのは少なくとも昨晩のことだ。まさかそれから何も食べていなかったのかと少女を見下ろせば、少女は「白湯をいただきました」と何故かひどく嬉しそうに言う。思わず頭を抱えた佐久間は、結城に頭を下げて部屋を後にしたのだった。
170514